みっちゃん(ADHD)公開日記帳

ADHD社会人。日々悩んだり、迷ったり。紆余曲折しながら、発達障害と共に、仕事も私生活もより良く生きたい。

「障害受容なんてできるか」


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だいぶ時間が経ってしまったけれど、お題箱で「障害の受容」について、私の体験談を書いて欲しいというお声を頂いたので、書いてみる。

 

色々と思うところがあってね、どう書こうか考えていたら日が経ってしまったから、とりあえず見切り発車で書き始めることに🚌

 

【目次】

  1. 「私は障害なんかじゃない、悪くない」
  2. 「人と違う自分」を突き付けれた一年
  3. 白旗をあげ、藁をも掴む思いでの受診
  4. ADHDとは」「私とは」を模索する
  5. 今もなお、認めがたい焦燥感と隣合わせ
  6. それでもなお、私は私で生きていく

 

「私は障害なんかじゃない」

すんなり受け止められましたか?って聞かれることが多いけど「いいえ、全く」です。そもそも、この界隈には障害を疑って初診に至る人が少なくないけど、私はそうじゃない。

 

社会に出て、突拍子もなく仕事が出来なくて、見かねた上司から受診を勧められたのが発端だった。当時もうボロボロだったから素直に受診したものの、自分を客観視する判断力さえ残っていなくて。ただただ、この地獄から抜け出したい、助けてくれ…そんな思いでの受診だった。

 

【初診時に携帯に書き残していたメモ↓】


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で、受診して最初に付いた診断名は鬱病抗うつ薬やら何やらが処方された訳だけど、それ飲んだところで仕事できるようになる訳でもなければ、劇的に何かが変わる訳ではなく。

 

医者から受けた「新人期だからみんなそんなもんだよ~」という励ましを、認知歪みまくり被害的攻撃的思考満載な当時の私は、「私の辛さは伝わらなかった」と解釈し、通院すら無意味に思えてきてものの数ヵ月でボイコット(?)した。(今思えば、ここで信じて続けていればもっと早く状況は変わっていたのかも)

 

職場が悪い、上が悪い、環境が悪い。

悪いのは、私じゃない。

私は、こんなに必死にやっている。

誰も分かってくれない、助けてくれない。

 

一度掴んだ、障害受容に向けてのチャンスを、私は盛大に振り払った。

 

「人と違う自分」を突き付けられた

そんなこんなで結局、根本的な問題と向き合わぬまま、仕事を続けた。後から続々と新人が入ってきた。

 

そもそもとしてハードな職場環境だったこともあって、ドクターストップかかったりメンタルやられたりする人がたま~に出る職場ではあった。けど、自分の後から入った新人達は、悩みながらもそれなりに仕事をこなせていた。それを目の当たりにした。

 

「環境のせいだけじゃない」

 

伸び悩む自分と、

周りに適切に順応していく新人。

 

その溝の深さが日に日に増すのを感じながら、それらが環境要因だけでは説明しようのない事実であることを思い知った。逃げ道がなくなった。

 

最後の自己防衛カードを失った私は、どんどん攻撃的になり、周りから孤立した。自分の非を認めず、ミスや不手際を嘘をついてごまかしたり、そこに向き合う事から逃げた。

 

そんな働き方だから、周りにも見離され、ますます仕事は進まなくなるし、小さな摩擦やトラブルも増えた。嘘やごまかしで自衛するのさえ、とうに限界ラインを越えていた。自らが積み重ねてきた嘘やごまかしや、間違いをある時上司から指摘された。もう通常の業務をあなたにはまかせられない、と。

 

私は、何をやっているんだろうと思った。

 

やりたい事、憧れた仕事があって、大金をはたいて大学に入り、必死に勉強して資格を取って、やっと辿り着いた職場で。

 

私は誰一人の助けにもなれていなければ、むしろ誰にとってもお荷物で、邪魔で、必要とされているものも何もない。

 

「怒られないように」だけを念頭に働いて、信じて育ててくれた周りや上司まで裏切って、一体何をしているんだろう。

 

私がここにいるより、いない方がずっと良い。私がいなくなれば、ここに入りたい人の分の一枠が開くわけだし、私が意地でここに居座る必要なんて無い。みんなにとっても、それが良いんだろう。

 

今まで固く握っていた、

最後の一本をパッと手離した瞬間だった。

 

私は、皆と同じようにはできないんだ。

その事実が自分の中でようやく府に落ちた。

もう、全てを認めざるを得なかった。

 

私にとっての障害受容のスタートは、

初診日ではなくここだったように思う。


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上司が何人かいる場で、

「すみません。辞めさせて下さい。」

「私がここにいても迷惑をかけてしまいます。」

「このタイミングで辞めれば別の方が入れます。」

そんな事を話した。

 

人事に相談すると一度保留にされた後、後日直属の上司から「受診に同行したい」と提案された。

 

藁をも掴む思いでの受診

私はやっと、白旗を上げた。通院をしばらくボイコットしていた例の病院に、上司同行のもと再受診した。

 

もはやこの時期の記憶は曖昧で、何をどう話したかよく覚えていないのだけど、上司から「人が一時間で終わる仕事が五時間かかる」「すぐ嘘をつく」「当たり前に出来る事が出来ない」とか、ナイフで突き刺さるような事柄の数々が、主治医に伝達されていった。

 

そこで処方されたのが、コンサータだった。

 

他の身体状況の確認云々~みたいな名目で、診察後に採血があった。私はよく分からないけど、不安や悔しさや恥ずかしさや惨めさやら色んな感情がごちゃごちゃになって、採血の間ボロボロと泣いていた。

 

血を採られるのは、趣味が献血なくらい慣れていて微塵も抵抗は無いのだけど、採血した看護師さんが「血を採られるのが心底苦手な人」だと思ったのか天使のように優しくしてくれたのは覚えている。怖くて泣いている訳じゃないんだよ~と思いながらも、涙が止まらなかった。

 

午後からは出勤の予定でいたけど、みかねた上司から「今日は帰って良い」と指示され、病院から一人で帰った。やることもやりたい事もないので、「コンサータって何だ」って何となく調べてみた。

 

それが、自分とADHDとの最初の接点だった。

 

コンサータが処方されると言うことは、どうやら自分はADHDとして見立てられていると言うことらしい。え、何だそれ。どういうことだ…と調べ始めた。


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ADHD」「私とは」を模索する

ADHD、名前は何となく知っていた。「すわっていられない子供」みたいなやつだ。だけど私は、幼稚園時代も、小学校時代も座って話を聞けていたから違うだろう…と目にも留めなかったやつ。私はそれなんだろうか。

 

ひたすらに調べた。本屋に並ぶ「発達障害」の本を読み漁ったり、ネットで記事や当事者のブログを読み漁る。とある方のブログに、Twitterのつぶやきが引用されていた。Twitterでは、当事者であることを明かしながら、自らの声や対策を載せる人が多くいることを知った。

 

より深く調べるほど、自分との共通点が徐々にあぶり出された。同じ診断名でも様々なタイプがいて、傾向も色々だ。私は、一体どれなんだろう。どうすればそれが分かるんだろう。て言うかそもそも、私は直で診断名告げられていないんですけどどうすれば…

 

そんな矢先、部署異動が決まり(退職の話、結局有耶無耶にされた)異動先での配慮を検討するにあたって診断書が欲しいと人事から告げられた。主治医に頼み、文書料を支払い、診断書を手にした。主の診断名にはうつ病、従たる診断名として「注意欠如・多動性障害」と書かれていた。


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ここで府に落ちたのか?いやいや。ここまで「普通」のレールを辿って生きてきた訳で、プライドの塊みたいな性格も相まって簡単には納得できず。

 

そもそも問診しかしてないし、医師は何を根拠に診断したんだ?まあ診断名はともかくとして、何が出来て何が出来ないのか具体的な所が分からなくっちゃ、対策の仕様がないしどうしようもない。

 

発達検査を受けたい!

 

そう思うようになった。かかりつけの病院には心理士がおらず、検査を出来る体制ではないので主治医はあまり乗り気でなかったのだけど、私があまりに強く希望したので他院に紹介状を書いてくれた。

 

既に診断は降りていた訳なので、医療の一貫としてではなく「自分が自己特性を知り、特性と性格の線引きのヒントを得て、今後の対策を検討するため」という名目での検査実施となった。(もちろん、診断目的ではないので保険対象外で自費。一万五千円くらいかかった。けど、解説や説明はとても丁寧に頂けたので本当に感謝している)


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自分が今まで感じてきた違和感やアンバランスさを、心理士さんに紐解いて説明してもらった。勿論、困り事や悩みの全てを解説された訳ではないけれど、奥底で感じていたモヤモヤのいくつもを「本当それな!!!」という形で紐解いてもらえた。

 

ASDとしての特性は、診断を付けるレベルまでは今回の検査ではみられないが、ADHDとしての不注意、多動、衝動等の傾向ははっきりと見られる。きっと、この凸の部分がありながら、ここの凹の部分がこのように作用し、普段からこのような躓きが起こりがちなのでは…という具合に。

 

帰り道、胸の奥につっかえていた棒がすとんと外れたような気持ちになって、ポロポロと涙が止まらなかった。悲しい涙ではなく、やっとやっと、問題の根源が見つかった。それが第三者に認めてもらえた。私は、私に出来ることを一つずつやっていこう。そんな晴れやかな気持ちの涙だった。

 

その後、主治医にもWAISの結果を見せたら「見立てていたよりも、ディスクレパンシー(得意不得意の差)がずっと甚だしくて驚いている。この結果じゃあ、今まで大変だっただろうね。(検査を)受けて良かったね」との反応だった。

 

その後、異動先の職場でも自分のADHDを公表し、配慮も頂きながら、薬の調整や、自分の認識のズレや苦手と向き合う日々が始まった。

 

その後も沢山沢山失敗して、指摘され、落ち込んで、職場で泣いた日もあった。「ADHDノート」を作って、日付と、ミスした事や気付き、今後の対策をメモした。

 

障害受容に関する私のターニングポイントは、この時期だったように思う。周りから指摘を受けた日でもなければ、初診日でもなく、診断名を知った日でもない。

 

  • 「出来ない自分」をありのまま認めて
  • 「診断が付く現実」と正面から向き合い
  • そんな自分でもやれる事をやっていこう

 

と、まっさらに思えた、そんなタイミングだった。事の発端から、実に2年もの時間が経過していた。

 


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今もなお焦燥感と隣りあわせ

とは言え、全ての事をすんなり受入れられるようになった訳じゃない。数字も出て、書面も出て、これだけの動かぬ過去や事実があっても今もなお

 

「自分は本当に障害なんだろうか」

 

そんな風に悩む日は沢山ある。「障害であるかないか」を悩むと言うよりか、自分が障害であることで「この先も一生、この周りに伝わりにくい疲れや不器用さ、結果の出ない日常から抜けることは出来ないんだろうか」と言った孤独感と絶望感、と言った方が適切かもしれない。

 

何なら、同じ診断を持った人達の努力や才能にさえ自分は届かなくて「羨ましい」と感じたり、「結局、発達障害という診断名に逃げているだけで、人間性や性格の問題なんじゃないか」「甘えているだけなんじゃないか」そんな、周りや自分自身からの視線に押し潰されそうになる事も多々ある。

 

本当にこのまま働いていけるんだろうか。

結婚しても良いのだろうか。(したけど)

子供を生んでも良いのだろうか。

私は、私で良いのだろうか。

生きていても良いんだろうか。

 

不安で、不安でたまらなくなったりする。誰にも伝わらないようで、一人ぼっちな気がしてくる。そんなことはなくて、支えて励まそうとしてくれる人達がいるのも分かっている。分かっているけど、自らとの隔たりを感じてしまう自分の未熟さが、また悲しくなる。

 

本当は、悩んでいる訳ではなく

「そんなことないよ」

「あなたは頑張っているよ」

「一人じゃないよ」

そんな言葉と確証が、欲しいだけかもしれない。

だからこそ、そんな言葉を人にかけるのかもしれない。人に言うことで、本当は誰でもない自分を励ましたいだけなのかもしれない。

 

Twitterではよく「どうしたら前向きに生きられますか?」と聞かれるが、正直「知らねえ」としか言いようがなくて、障害受容しているのかについても、本当のところよく分からない。今現在、困ったり落ち込んだりしながらも前を向いて進みたいからこそ、嘘でも良いからまず前向き(風)な言葉をひねり出して並べる、そういった自己洗脳手段を実行しているに過ぎない。

 

長くツイ廃をやっていると「ADHD対策が一段落したからもうTwitterは卒業します」とか、「発達障害で良かった」なんてお声も見かける訳で、私は心底羨ましくて仕方ない。

 

今まで何度も、ADHDである自分を恨んできたし、今でも悩みは尽きないし、根底では障害である自分を完全に肯定しきれなくて捨てられないプライドがあるからそそ、こうやって「前向きに生きる自分」を演出し続けたいのかもしれない。正直、ADHDを辞められるなら、さっさと辞退したい。

 

障害を受け入れて前向きに生きたい自分

障害を認められなくて不安に負けそうな自分

 

どちらも本音であり、本心だ。発達障害は根本的に「治る」とは中々に言い難い部類の障害であるし、先天的に生まれもった脳特性に、後天的に名前(診断名)が告げられるという構造からして、身体障害なんかとは根本的な質の違いがある。そして他者からは見えにくい。何なら自分自身ですら、障害と性格の線引きが難しい。

 

誠実に、真面目に生きる人ほど、その受容が容易いものでないことを、私は身を持って感じている。

 

自分は障害でないかと悩むけれど、受診する勇気が湧かないその気持ち。子や家族が、障害でないかと疑念があるも、そうかと認められない揺れる気持ち。それらの重さ、複雑さ、一筋縄では行かないもどかしさ。

 

他人に行けと言われたから、診断書が出たから、「はいそうですか」と言えるほど簡単な物じゃない。私はそう思っている。


いろんな背景や思い、経過を辿って、その人、その家族にとってのベストな受容時期や形がそれぞれ絶対にある。






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それでもなお、私は私で生きる

まあそんな感じで、障害受容ってとても難しいし、どうあるべきかも、どこからが受容と言えるライン

なのかも正直まだよく分かりません~というのが結論。ごめんね。

 

ただ、今日はなんか前向きに行けたなとか、今日はなんか悲観的になってダメダメな自分だったなとか、

 

障害の受け入れに関しても、前を向いたり、後ろを向いたり、らせんを描きながらあっち行ったりこっち行ったりしながらとりあえず自分は自分で生きていけば良いと思うの。

 

障害があろうがなかろうが私は私だし、発達障害なんてあくまで自分の特性に名前を付けて医学的な傾向として括っただけの物であって、自分の一部でしかない。

 

私は他人と接するときも別に「ADHDの~」「ASDの~」「定型の~」なんてあえて分けたりしないし、そこはあくまで参考情報で、「目の前のこの人」として接するだけな訳で。自分に対しても、そういう見方が出来るようになれたらなと思っている。

 

「たまに後ろ向きになることがあっても、ムーンウォークのまま動いていれば多少前進できるからそれで良いよね!」って、いつしか聞いた、旧友の言葉が私は大好きだ。

 

完全に受容できなくたって、とりあえず生きていけば「私は私」「あなたはあなた」、それは変わらない。前向いたり、後ろ向いたりしながらやっていきましょう~🍵おしまい。




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「人生は、らせん状」


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人生は、らせん状

 

人生は、らせん状だ。

まっすぐ階段を上がるようには中々行かない。

 

上手く行っていると思えば

どん底に突き落とされたり、

起き上がれないくらい気が沈む日が続いたのに

ふっと散歩に出掛けたくなったりする。

 

正直よく分からない。

いつまた足元を救われるのかといった

不安があるような気もするし、

逆にあれだけのどん底を見たのだから

なんかどうでも良いかなという気もする。

 

自分がアップダウンしているのか、

世の中が変化しているのか、よく分からない。

 

けど、螺旋状だからこそ見える景色がある。

前方も後方も、右も左も。

ただ前だけを見て、上だけを見て

登っていた時は分からなかった

様々な景色や、空気の流れを感じる。

 

私をとりまく環境は、一つじゃない。

「ここにいれば必ず成功する」

なんてオアシスも無いけれど、

 

100%の人生でなくてもどうにかこうにか

しなずにいられるだけの制度が整っている国に

私は生まれた。

 

失敗しても、躓いても、

またぐるっと回って違う角度に照準を合わせれば

いつだってゲームを再開できる。

 

もしかするとしぬまで縁が無かったかもしれない

あらゆる人と出会えて言葉を交わす事のできる、

そんな時代に私は生まれた。

 

平均台な人生なんて、ごめんだ

 

昔は、こわかった。

なぜなら「人生は平均台みたいなもの」だと

思っていたから。そう教えられてきたし。

 

努力すること、頑張ること、

良い子でいること、一番になること。

親が望む、世が望む「こうあるべき」

レールからこぼれ落ちないように、

 

頑張って!頑張って!努力を惜しまないで!

みんなの期待を一心に背負って、

嫌われないように置いていかれないように、

ただ前だけを上だけを無心で見つめて

 

先の見えない平均台を一生懸命渡った、

落ちたら終わる、落ちたら終わる…

 

 

そして見事に平均台から落っこちた。

 

 

落ちたからこそ、見えたもの

平均台を渡っている間は、

ろくに周りを見ていなかった。

何なら差し伸べられた様々な手を、

振りほどいて生きてきた。

 

レールから脱落して、全てを失って、

ようやく自分の周りに手を伸ばしてくれていた

「人」がいることを知った。

今までどれだけ、蔑ろにしてきたんだろう。

 

守るものが何もなくなって、その手を掴むと

地の上に落ちたと思っていた自分は

らせん階段の踊り場にいた。

 

自分には何もない、

みんな上に行ってしまったと思っていた。

勿論、上に行ってしまった人も沢山いる。

 

けど、下を覗いたら、

ちゃんと今までの軌跡があった。

少しだけ、少しだけだけど

登っていたのかもしれない。

周りの皆よりかはゆっくりだけど、

落ちたり、もがいたりした軌跡は

ちゃんと残っている。

 

あっちに行ったり、こっちに行ったりしながら

不思議な経路を辿って最初よりかは、

登っている。気がしないでもない。

 

今でもたびたび、踊り場で休憩する。

上を見上げて途方もないと嘆いたり、

右や左を見てちょっと違う景色を見たり。

 

いびつながら、今まで登ってきた階段を眺めては

もう少し登ってみようと騙し騙し

自分の背中を押してみたり。

 

ぐるぐる回りながら、

少しずつ登っていければそれで良い。

疲れた時は段に腰掛けて休めば良い。

 

今日も私は、らせん階段を駆け登る。

一段ずつ、登っていこうね。

 


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容姿コンプな私が出会った 素敵な女性の話

 

あなたは、自分の容姿が好き?

私は正直好きではなくて。昔からコンプレックスの塊みたいな感じ。そんな私が、とある素敵な女性にお会いして、ほんの少しだけ捉え方が転換した経験談

 


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≪目次≫

  1. ファンデを塗りたくった思春期
  2. 私が出会った、素敵な女性の話
  3. 「本当の美人」って、何だろう

 

ファンデを塗りたくった思春期

外見コンプレックス、あげればキリがないけど特に根深いのは「肌が綺麗でないこと」だった。

 

中学生頃から、治っては消え治っては消え…を繰り返すニキビ。肌がまっさらな状態である時期なんて、それから10年くらいほぼなかったような気がする。

 

今となっては、そんな周りは自分の肌なんて気にしてないし、中学高校ってそういう時期だからそんな悩みなさんな~って本気で思うけれど当時の私には死活問題だった。

 

何でだろうね。多分、根底にあるのは自己肯定感の低さとか、プライドの高さとか、劣等感とかそういった認知面だったように思うけど。

 

ありとあらゆる洗顔料やら薬やら試したけれど中々治らず。悩んでいたタイミングで、姉のいる友達から「ファンデ風に色付く、美容クリーム的な何か(?)」をもらったんだよね。相談してたとかではなく、家族ぐるみで仲良くて服とか雑貨とか気軽にあげたりする間柄だったから、その延長で。

 

試しに使ってみたら、これで少し隠せるかも…と気が紛れた。それが発端だった。クリーム的な何かを使い切ると、ドラッグストアで似たような商品を探し購入。中学生が化粧するほど荒れた学校じゃなかったし、周りや先生にバレないように…と付け方を研究しながら毎日使った。(誰も触れなかっただけでバレてた気がするけど)

 

いつしかそれなしでは過ごせなくなった

 

一度、何らかの用事で保健室に言ったとき、養護教諭に「若いのにそんなもの付けて!肌を殺してるのと同じだよ!」ってすごい勢いで指摘されて、そりゃあもう落ち込んだ。友人も一緒だったのもあって、恥ずかしいは情けないは格好悪いわ…

 

美人でいたかったとか、ちやほやされたかったとかそういう類いのアレではない。素顔が汚い自分を晒すのが恥ずかしかった。どうか誰も触れないでくれ…っていつも思ってた。

 

結局、すっぴんコンプレックスはその後も加速して、大学生になり化粧世代に突入すると拍車がかかった。周りにいるのが親しい友人だけの旅行でも、泊まりでも化粧が落とせなくて、布団に入り電気が消えてからこっそりメイク落としシートで化粧を落としたりしていた。

 

メンタル病みすぎ!w

 

勿論肌以外にも、自分の容姿で好きになれないところは沢山ある。生まれ持った眉の形やら、左右アンバランスな目の形、中学の時ぶつけて欠けた前歯(笑)、痩せても落ちない頬の肉、などなど…

 

まあ根本にあるのは生まれ持った造形や体質の問題ではなく「認知面の歪みや脆さ」なんだろうけどね。そこがベースにあるから、多少容姿が変わったところで、無いものねだりや、隣の芝は青く見える現象は永遠に続く。

 


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私が出会った、素敵な女性の話

 

「美人の真顔より、凡人の笑顔」みたいな言葉があるけど、いやいやそんな訳ないだろ~と、長年思っていた。コンプ人間はどうやったって、太刀打ちできないよねって。去年の6月、そんな概念を覆す出会いがあった。

 

彼女は勤め先の客人だった。

だらだら説明するの面倒だからとりあえず

当時のツイートを貼っとく↓


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結論から言うなら「顔立ちやスタイルは決して良い訳ではないけれど、めちゃめちゃ魅力的な人間性にじみ出た方とお会いして、衝撃を受けた」って感じ。

 

第一印象は「男性かな?女性かな?」といったところで、正直性別が分からなかった。髪はベリーショートで、化粧っ気がなくて、小さな目、低くも高くもない平均的な身長で、体型は少しふくよかな感じ。

 

美しいとかそうでないとかは主観的なものだとは思うけれど、おそらく「容姿だけ」で言うならば、一般社会的に述べられる「美人」の代名詞として用いられるような要素はほぼ無かった。

 

印象に残っているのはそこからで。

 

この方、私が説明している間は必ず手を止めて真っ直ぐに私の目を見る。その目の奥は真っ直ぐでとても綺麗だった。

 

ながら聞きではなくちゃんと聴いて、「分かりました」と表情や動作を付けて一つ一つに丁寧な反応があった。

 

当時の接客の内容として、仮に私に気に入られた所でその女性に何のメリットも無い。つまり利害関係の無い人間関係の中でなお、“人体人”の次元で誠実に対応してくれているのを感じた。

 

表情や、立ち振舞い、その人自身の雰囲気なんかをトータルして感じる「その人のオーラ」みたいなものってあると思うんだけど、

 

この人の“それ”は、単に可愛くて大事に育てられてきたからの“育ちの良さ”って感じとは少し違って。別に、とりわけ“所作が美しい”訳でもない。

 

時折見せる表情とか、間の取り方とか、何となくだけど今まで沢山辛いこと苦しいこと経験したからこそそこを乗り越えた強さ素直さ、しなやかさ、みたいな内面が伺えた気がした。(あくまで私の受けた印象なんだけどね)

 

勿論、佐々木希や橋本環奈みたいな容姿で生まれれば可愛いね可愛いね~と言われ大切にされて育つから、何となくひねくれる事なく真っ直ぐで健やかに育ちそうな気はするけれど。

残念ながら、世の人類がみな、そこのポジションを確保して生まれてくる訳ではないんだよね~

 

けれど、今目の前にいるこの女性はどうだろうか。きっと、この人の持つ素直さや誠実さは「生まれもったラッキーや才能」から派生したものじゃない。

 

きっと、この人の今まで生きてきた半生を、素敵な形で吸収し糧にしてきたからこそ、発せられる輝きで。その根底には、ハッピーや暖かさだけではない色々な感情がある。それらを含むからこその、強さであり、美しさだ。そんな印象を受けた。

 

その女性は最後に「どうも、ありがとうございました!」と、くしゃっとした最高の笑顔を見せて帰っていった。日本人にありがちな社交辞令スマイルより一歩格上の、屈託なく暖かい笑顔だった。

 

彼女がいなくなった客席にはどことなく余韻が残った気がして、「綺麗で、魅力的な人だったなあ」と私は思った。相貌失念を疑うくらい、人の顔を覚えられない私だけど、その女性のくしゃっとした笑顔は今でも脳裏に焼き付いている。

 

きっと、当時一緒に働いていたスタッフで彼女のことを特に覚えている人はいないと思う。彼女の人としてのオーラや、内面に直接触れた私一人を除いては。

 

身なりを着飾った人や、生まれもった天然美人、スタイルの良い方にお会いする事も多々あれど、私はその女性を越えるインパクトのある女性を未だ見たことがない。「あれが本当の美人なんだ」と今でも思っている。

 


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「本当の美人」って、何だろう

 

人は【生まれもったカードで生きること】を強いられていて、残念ながら努力で届く領域とそうでない領域がある。

 

そしてそれらには「ここまで来れば合格」という明確なラインは存在せず、どこを目指すかは本人や各人の「主観」に委ねられる事がほとんどだ。

 

容姿に関しては、確実に「努力でカバーできる領域」がある。特に女性は、化粧やらダイエットやら服装やら整形やら、手間隙時間を費やせば際限なく上を目指せる。

 

ただし「際限がない」とはそういう事で。

 

永遠に上には上がいる。そして、ある程度自分が上り詰められる位置には現実的な限度がある。おそらく、私が1000万かけたところで沢尻エリカの容姿になれる事はない。

 

自分である程度の落とし所と言うか、合格ラインを見つけてあげなければ、いくら容姿がグレードアップしたところでどんどん不安になる。孤独になる。リアル「ヘルタースケルター」だ。それって幸せでもなければ、美人でも何でもない。ただの「美しさ依存症」だ。

 

過去の私はこれに限りなく近しいと思っていて、結局問題の根底にあったのは「自己肯定感の低さ」という認知面だ。承認欲求を満たすツールが「容姿」であっただけ。

 

 

対して、

私が出会った素敵な女性は【生まれ持たないカードを手に入れた】人なんだと思う。たとえ生まれ持ったカード(容姿)に恵まれなくても、自分の経験した痛みや孤独や理不尽な思いの数々は、適切な形で消化して転換できれば、その人の魅力として最強のカードに成り得る。

 

この「革命」とでも言うべき大転換は、

たとえ華やかなカードが与えられなかった凡人も、コツコツと意識や積み重ねを続ける事で間違いなく引き起こす事ができる。誰にでもチャンスはあるし、むしろ理不尽な痛みを味わってきた人ほどそのきっかけは多いのかもしれない。

 

 

“本当の美人”になるために重要なのは、

生まれもったカードの良し悪しじゃない。

「後天的に、いかに革命を起こせたか」だ。

 

 

事実、トップモデルになりたいのならある程度のカードか金かコネかが必要なんだろうけど、結婚して家庭を持ったり、慎ましい幸せを手にしているのは“革命を起こしてきた人”が圧倒的に多いような気がする。

 

 

未だに私は、自分の容姿が大嫌いだ。

 

すっぴんで、化粧をせず、カラコンもせず、髪ボサボサで鏡に映った自分の顔を見ると「いよいよアラサーだなあ…」といつも思うw

 

ただ、もう昔みたいにファンデーションを塗りたくって素顔を隠す必要はない。「本当の美人」になる方法をあの女性から教わったからだ。

 

今まで味わった劣等感、焦燥感、自己否定感、世の中の理不尽さ。それらをひっくり返して、いつか自分の強みと彩りに変えていけば良いんだ。いつか、あの女性のように。

 

 

そんな「小さな革命」を夢見ながら

私は今日もファンデーションを塗りたくる。

 

 

どんなに背伸びしても

佐々木希にはなれないけれど。

私の目標は、素朴でベリーショートの

くしゃっと笑う“あの女性”なのだから。

 

鏡に映った私は、

自分の素顔を見て泣いたあの日の自分より

「とても良い顔」をしている。

 

シワも、ニキビ跡も増えたけれど、

今の方が絶対に「良い顔」だ。

素敵に、年を重ねて行こうね💄

 


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強がりという名の甘え


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強がったり憤ったりするのも一つの「甘え」なんだろうなあ。相手がどこからどう見てもかないっこない!!って敵なら戦意剥き出しにしたりはしないだろうし

 

ある意味「多少むすっとしててもあなたは私を根絶したりしないですよね」って、相手との関係性含めて信頼しているからこその裏返しなのかもしれない。

 

逆を言えば、そう言った感情はあれど相手にぶつけられない時ってのは「言ったら相手との関係にヒビが入るリスクがある」のを本能的に分かっている表れなのかも。

 

身内や近しい人こそそこが欠けてしまいがちなのは、この人なら何だかんだキャッチしてくれるはずだという根拠のない「甘え」が根底にあるから。小さな子供が、人目気にせず盛大に駄々をこねまくるのも、そのベースには「これだけやっても見捨てられはしない」関係性があってこそのもの。

 

ただ、どれだけ駄々をこねても最終的に手を引いてくれるのは地球上でも中々いない存在な訳で。甘えの上にあぐら書いていたら、ある日ふっとヒビが広がってバラバラになってしまうこともある。見た目には分からなくても、人の気持ちはそのくらい脆くて繊細だから。

 

近しい人こそ、無作為にボールぶつける前に深呼吸。まずは自分も体制を整えて、しっかり手を握って、相手の温度も確めて「手渡す」プロセスをぬかりなくやっていきたいね。

 

今日もいちにち、がんばっていきまっしょい

 


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「モヤモヤの紐解き方」


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完全に気持ちの垂れ流し記事なんだけど。

自分の中でモヤついた気持ちがあるとき、

あなたはどんな風に対処する?

 

私は「まず何らかの方法でアウトプットする」

事が多い。(今日はそのための記事)

 

≪目次≫

  1. モヤモヤの対象はこの三つ
  2. どうやって紐解いていくか

 

モヤモヤの対象はこの三つ

私のモヤモヤには傾向がある。

あらゆるモヤモヤを分類分けすると、

大体この辺に当てはまる。

 

  1. 自分に対する苛立ちやコンプレックス
  2. 彼や両親に対する苛立ちや憤り
  3. 理不尽な場面に直面した時の不満感

 

自分に対して苛立つのは、単純に

根本的には自信がないのにプライドが高いから。

自信がないから人目や結果に右往左往する割に、

プライドが高いせいで自らに課している

合格ハードルがものすごい高い。

そこに至らなくて苛立ったり、悩んだりする。

(可愛げなくてやだね~)

 

彼や両親に苛立つのは、

近しい存在がゆえの「期待感の裏返し」。

こうあって欲しい、みたいな理想像があって

そこから反れた時にモヤつくんだろうね。

期待を持つこと自体は悪じゃないけど、

出し方伝え方は大事よね。

他人は自分のマリオネットじゃないからね。

(分かってはいるけど~的なやつ)

 

理不尽な場面に直面した時の不満感、

これは読んで字のごとくだけど

「私のせいじゃないのに~」みたいな怒られとか

「自分ばかり苦い汁吸ってる」みたいな状況を

文句言わないくせに一人で悶々としがち。

(文句言えば良いのにね~プライドが邪魔をする)

 


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どうやって紐解いていくか

解決するためには、まず実態を知る必要があって。

ぐるんぐるんにこんがらがった状態じゃ、

解決策の練りようもない訳で。

ひとまずほどいて全体像を見渡す必要がある。

 

自分に対してのもやつきは

冷静になって元をたどれば何らかの

コンプレックス的なものに行き着く事が多いから

割りと紐解きやすい。

自分の事は、誰でもない自分がよく分かっている。

あまり向き合いたくないから直視しないだけで。

 

やっかいなのは、

彼やら親やら、人に対する苛つきで。

自分はともかく「人が絡む」と

簡単にその構図をひっくり返せはしないし

相手の何に苛立っているのか

自分でもよく分からいけど苛立っていたりする。

(あ、今わたし結構この状態なのかもしれん)

 

相手が思うように動かないことなのか、

価値観が一致しないことなのか、

予想外の動きをされ見通しが崩れたことなのか、

その相手であれば何されても苛立つのか…

 

あとアレだ。

単純に思い込みの延長でボタンかけ違っているとか

なんか変な思い込みゆえに躓いている事も多い。

蓋明けてみたら「そんなつもりじゃないのに~」

とかそんな結末でした的なやつね。

 

どのみち、複雑なモヤモヤに関しては

進まなくなったら情報の継足し時と言うか

相手と一歩踏み込んで、

やり取りし直して方向性を見直してみると

案外風向きが変わったりするのかも。

 

こんがらがった糸をほどくにも

針やらピンセットやら道具は必要だからね。

相手や周りにまっさらに意見を求めてみよう。

 

 

そうだそうだ、とりあえずそうしてみよう。

ほどけてみれば何てことなかったりするからね。

 

 

特にオチはないです。おわり!笑

 


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「駄菓子 大量買い失敗談」

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お正月も終わってしまうね。

明日からのお仕事が憂鬱すぎて

ひっくり返りそうだわ。カムバックお正月🎍

 

と、言うことで正月と言えば「お年玉」。

【お年玉にまつわる大失敗エピソード】と、

その振り返りから想う私なりの

「手に入れたい幸せ」について書いてみる。

 

<目次>

  1. 私にとっての「お年玉」
  2. お年玉はたいて駄菓子を爆買いした話
  3. 母から猛烈な叱責を受けた話
  4. 20年経った今想う「手にしたい幸せ」とは

 

 

私にとっての「お年玉」

わが家は元々、親戚付き合いが希薄だった。

お年玉をくれるのは、父と父方の祖父のみ。

もらえても数千円~一万未満程度ってところで

「何万円」単位でもらえている

同級生の話を話を聞いては羨ましく思っていた。

 

もらえる金額がその程度だった事もあり、

「母が代わりに受け取って謎の口座へ~」

みたいなしきたりはなく、全額現金で本人が受取り

その後の使い方も完全に本人に決定権があった。

 

全額貯金していつか好きなものを買うも良し、

一気に散財して後で悔やむも良し、

自分で判断して金の使い方を学びなさい、

ただしモラルの範囲内で。そういう方針だった。

 

同級生に比べ少ないとは言え、

当時の自分には千円単位のお金は高額だった。

しかも自分で使い方を選べるまとまったお金。

可愛いぽち袋に入ったお札は非日常感にあふれ

手に取るだけでとてもわくわくした。

 

 

 

私はと言うと、

コツコツ貯める or 派手に散財する

のどちらかで極端なタイプだった。

0か100かしか選べないのは相変わらず。

 

とは言え「自分で考えて学べ」方針だから

めったに親に口出しされる事はなかったのだけど

一度だけ、とんでもない使い方をして

母を激怒させたことがある。

 

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お年玉はたいて駄菓子を爆買いした話

まあ読んでの通りなんだけど。

昔から、やる時は振りきって徹底してやらかす。

何を思い立ったのか、お年玉数千円握りしめ

「買えるだけのお菓子を買ってみよう!!」と。

 

現実的かどうかはさておき、

この案、めちゃめちゃときめきません???w

 

当時、お小遣い数百円の身分な訳で。

駄菓子屋でも「優先順位を付けて買う品を選別」

しなきゃならん訳ですよ。

 

友達があれこれ買うのを横目に、

自分の手の中の100円玉やら何やらの合計と

欲しい物の合計金額を考え、

どれを買うならどれは我慢だ~

どちらを優先しようかな…的なアレ。

 

お年玉あれば、それやらなくて良いじゃん!

一度で良いからお菓子すきなだけ買ってみたい!

(本当に当時から、衝動性の固まりだった)

 

心踊った私は、同じようにお年玉所持した友達と

トコトコ後を付いてくる弟を引き連れて

近所の駄菓子屋二軒と、スーパーをはしごした。


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なんか気分がハイだったからか、

買ってる最中の情景はあまり覚えていないんだけど

 

最後に行ったスーパーのレジで

「あらあらそんなにお菓子買って~wwww」

とレジのおばちゃんに爆笑され、

 

レジ横で袋詰めしてたら、

見知らぬおばあちゃんから「沢山買ったのね~」

って声をかけられて「うん!」って

誇らしげに答えた記憶だけは鮮明にある。

(今思えば、褒められてないわ。心配されてた)

 

とてもとても、満たされた気持ちで家へと歩いた。

その両手には溢れんばかりの高揚感と、

ビニール袋二つ分 一杯の駄菓子が詰まっていた。


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(※画像は、当時好きだった駄菓子達)

 

 

母から猛烈な叱責を受けた話

当時から、衝動性に突き動かされ行動していた私は

母がどう反応するかなど微塵も思案しておらず。

 

母は、その両手一杯のお菓子袋を見るなり、

色々と私に質問を投げかけた。

「そのお菓子はどうするの?」

「いつ食べるの?」

「一人で食べるの?」

「そんな量食べたらご飯食べられると思う?」

「ご飯食べずお菓子だけ食べたらどうなる?」

「それはちゃんと考えてお金を使ったの?」

「お金はどこから来たものか分かる?」

「そのお金の使い方は正しい?」

 

あ、やっちゃいけないやつだったわw

ここでようやく我に返る。

当時、もう年長か、小学生低学年くらい。

これらの問いの答えは少し考えれば分かるし、

それなりに物事の分別は付いている年齢だった。

(ただ、いつも考える前に行動していたけどw)

 

まあ基本使い方は自分に委ねられていた訳だし、

母も「お菓子を沢山買ったこと」そのものではなく

考えれば当時の私に判断できる分別の枠を越えて

ただ衝動のまま大金をはたいてしまったこと

怒っていたんだと今なら分かる。

 

そりゃあね、今でこそ一週間(二人)分の

食材の買い出しで3000円くらいなのに、

それ全部お手頃価格お菓子ってすごい量だわw

 

こうして、両手一杯のお菓子二袋は

帰宅後15分ままならぬうちに母に没収され、

階段下の物置きの棚上行きとなった。

母管理の元、家族で分けて少しずつ消化したw

 

 

私が「手にしたかった幸せ」とは

その後、20年以上の月日が経過した今

当時の経験を糧に立派な倹約家へと成長した!

ならばただのありきたりな話なんだけど、

残念ながらそうじゃない。

 

今もなお、おんなじような事を繰り返している。

 

100均に行けば好きな物を好きなだけ買ってみたり

サイゼで一人食べ放題して数千円溶かしたり

 

昨年夏の誕生日には、プレゼントの代わりに

世界一UFOキャッチャーのある店に行って

飽きるまで遊びまくる!という遊びを

繰り広げたりした。(一万位使ったと思われる)

 

今だからその正体が分かったのだけど、たぶん

普段買いたいけれど買えない、とか

こっちが良いけど安い方にしよう、とか

 

一番の欲求を横に置いて、

現実的な二番目、三番目の妥協案で

折り合いを付ける、という場面が

日常生活の中では本当に多い。

 

特に、私達 発達障害者は社会の中で

何かと自分の特性を抑えたり手懐けたりして

どうにかこうにか生きているから尚のこと

 

その息苦しさから開放されて、

本来の欲求を通したいという反動が

人一倍強いんじゃないかと思う。

(普段から0か100かなのも、これが理由?)

 

とどのつまり、

私は駄菓子が欲しかった訳でも

サイゼのミラノ風ドリアが果てしなく好きな訳でも

アミューズメント専用景品が欲しい訳でもない。

 

「日頃の抑圧感から開放されてまっさらに

    楽しんだり意思決定したり、

    その嬉しみや高揚感に浸ることが出来る」

これが私の手にしたかった幸せなんだと思う。

 

すご~い高級な物とか、高額なお金とか

そんなものではなくて。

日々生活の中で少し我慢したりセーブしたり

慎ましい調節やら何やらをしているからこそ

たまに手にする「ちょっとした幸せ」に

意味や彩りが生まれる。

 

それらはほんの数十円の駄菓子でも、

心許した人と食べるチェーン店料理でも、

ほんの数千円で捕ったぬいぐるみでも良い。

 

「今日は『外食したつもり』で好きなだけ

    お惣菜買おう!」そんな【特別な日常】が、

私は何よりも大好きで、尊いと思っている。

 


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最も、この幸せのポイントは

「普段は節度を持って自分の衝動を

    コントロール出来ている」ことで。

 

もしも際限なく欲しい物を買い与えられていたら

何でも願えば手に入ると疑わないワガママ女か、

衝動故に一線を越えてしまった

万引き常習犯になっていたかもしれない。

だから母は、私を叱ったんだと今は思う。

 

誰しも、開放したい心に秘めた欲求や

現実的に叶わない願いを抱えている。

多かれ少なかれ、特性の有無に関わらず。

 

大事なのは、自らの特性や現状に応じて

それらを自覚し、日頃はコントロールした上で

生活に支障のない範囲で発散させてあげること。

それでこそ「幸せ」の延長として成立し得る。

そうでなければ行き着く先は、

ただのワガママ物か犯罪者になってしまう。

 

 

 

発達障害児にはとことん好きな事をさせろ」

「世の中のルールを押し付けるべきではない」

 

世の中には色々な声がある。

自分も実際、世の「一般的」レールに馴染まずして

沢山沢山こじれたり失敗したりしてきたから

一概にこれらが間違いだと言う気はないけれど

 

私は「いけない事はいけない」と

社会のルールやしきたりを厳しく教えてくれた母に

今となっては(今となってはね)感謝している。

 

何事も、土台がなければ応用は出来ない。

発達があるからと言って社会のルールを

無視して良い免罪符を得られる訳ではないのだから

 

「基本のベースは身に付けた上で」自立後に

本人が生き方を選んで行ける環境が理想かなあと。

 

難しいのは、その「基本を教えるプロセス」が

定型発達の子のそれとは少し違った工夫やら

何やらが必要なところだと思うけどね。

 

 

何はともあれ、私が今それらを幸せと感じられて

且つ生活の中での取り入れられる環境にあるのは

「みっちゃんは変わっているよね~」と笑いながら

懲りずに付き合ってくれる人達がいるからだ。

 

 

そんなことに感謝しながら、明日からもまた

色々な特性を手懐けたりコントロールしながら

社会で奮闘する生活に舞い戻る。

 


辛くなった時は、ぱ~っと開放しながら

ぼちぼちやれる範囲でやっていきましょう🍬

 



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「強いられた家族から選ぶ家族へ」

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この記事で何を書いていくかと言うと、

昔から関係が悪かった家族と

折り合いが付くようになった

私自身の体験談と、その考察について。

 

結論から言うなれば

強いられた家族だったのが選ぶ家族

関係性が変化したから、と言ったところ。

 

「何のこっちゃ」って思ったあなた、

とりあえず焦らず読み進めて欲しい。

 

ざっくり目次はこんな感じ。↓

  1. 「家族を大切に」論が大嫌い
  2. 「強いられた家族」だと息苦しい
  3. 「選ぶ家族」になるとラクになる

 

「家族を大切に」論が大嫌い

先に言う。

この手の綺麗事めいた話が、

私は大大大嫌いだ。

大切にされてこなかった相手に対して

大切な扱いが出来るほど私は善人じゃない。

 

「親の大切さは亡くなってから気付く」

「どんな親でも親は親」

「出産だけでそれは命懸けの愛」

「口五月蠅さも含めて親の愛情」

 

いやいや、知らんがな。

そもそも子を作る決断をしたのは親達であって

感謝しなければいけない義理を

生まれた瞬間に背負わされる圧力なんぞ

意味が分からない。感謝するかしないか、

大切にするかしないかのジャッジは私がする。

強いられた感謝なんぞ、まっぴらごめんだ。

 

隣の美樹ちゃんママ(仮名)みたいに

穏やかで大人で落ち着いていて家事もぬかりない

親であれば真っ直ぐに感謝できたかもしれないけど

うちは違う。

 

親は子を愛して当たり前、

それを受け取れない子は未熟だ、

みたいな風潮があふれているけど

 

今の世の中は「大人になりきれなかった親」

だってあふれるほど存在していて

親の未熟さのしわ寄せが、

子に向いてしまう家庭がわんさかある。

 

親と違って子には捌け口が無い。

機能不全家族の中で親のサンドバックにされ、

自尊心や他者への信頼感が育たぬまま

「表面上だけ」賢くて良い子になる。

(それでも子は、親に気に入られたいからね。)

 

「内面的には」マグマの如く煮えたぎった

憎悪間とコンプレックスを抱え持った子は

やがてアダルトチルドレン化したまま大人になり

その足枷を引きずったまま人間関係を築いていく。

 

もし、この記事を読んでいるあなたが

親との関係に息苦しさを感じているならば

私はその勇姿を心から褒め称えたい。

閉鎖的な家庭環境の中で、

あなたはよく頑張った。頑張っている。

 

もう一人で抱えなくて良いし、

辛かった思い、悔しかった思い、苦しかった思い、

それらを否定する必要なんてないし

 

無理して親に感謝する必要もないし、

自分に嘘をついて綺麗事で蓋する必要もない。

まず、生き抜いたあなた自身を認めて

抱き締めてあげて欲しい。

 

よく頑張りました。えらいよ!!!

 

と言う訳で、この記事は決して

「反吐出るような過去に蓋して親に感謝せよ」

とかそういう事が主旨ではない事を

前提としてココに置いておきます。ぺこり。

 

あと、不幸マウンティングでもないからね。

辛さとか大変さって、

人と比較できる物じゃないから。

自分が一番大変だったとか思わないし、

その人が大変と思えば、みんな大変よ。


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「強いられた家族」だと息苦しい

ふと、親や家族の

「何がそんなに嫌だったんだろう」と考えた。

 

先に結論から述べると「選択肢が無い」のが

とにかく嫌だった、と言うのがある。

 

この「選択肢が無い」とは、

決定権や主導権が完全に親にあって且つ

自分は他の親を選ぶことが出来ない状態のこと。

 

幼少期の嫌悪エピソードをあげれば

キリがないけど、あらゆるエピソードに共通して

言えるのはこれだったように思う。

 

自分がどう反抗しようが反論しようが、

社会的に「保護者」として位置付けられているのは

親であって、自分じゃない。

 

どれだけ自分が

「それは間違っている」「理不尽だ」と思っても

親の言うことは絶対だし、異論も通らない。

 

100歩譲って異議申し立てが出来たとして

自分には経済力がない。家を出るにも、

やりたい事をやるにもお金が必要なんだけど

それを叶える為には親の助けがどうやっても

必要になるのが現実で、ああ悲しきかな。

 

隣の芝は青く見えるとはよく言ったもので、

周りの「普通の」親に育てられている同級生が

心底羨ましく思ったりもした。

 

「普通の」親は夜中何時間も

ヒステリックに大声をあげたりしないし、

鍋を床に叩きつけて粉々にしたりしないし、

幻覚妄想が見えて自分達を監禁したりしないし、

 

突如仕事を辞めてくることもなければ、

宗教を強制して君が代を歌わせてくれなかったり、

日曜の部活や行事参加を禁止することもない。

「黙って金だけ入れてれば良いんだ!」と、

我が子を怒鳴りつけることもきっとない。

 

でも、親は取り換えられない。

私が好きで選んだんじゃないのに。

 

これが、私が感じていた

「強いられた家族」の息苦しさ

それが、嫌だったんだと思う。

 

最も、それでいて心の奥底では

親との関わりを望んでいた訳で。

何かと自分も親を理由にしたり、

親に文句垂れたり、わーわー言いながら

首突っ込みにいっていたような気はする。

 

「私が何とかしなきゃ」みたいなのは建前で

何だかんだ共依存関係と言うか、

嫌々言いながら親離れできなかったんだろうね。

 

 

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「選ぶ家族」になるとラクになる

 

ここからは「皆こうすべき」という一般論ではなく

あくまで「私はこうだった」という体験談。

 

結論から言うと、家族との関わり方のスタンスを

自ら選べるようになると劇的にラクになった。

 

昔と比べて、

  1. 心の距離の取り方
  2. 物理的距離の取り方

この2つが変化したところが大きい。

 

自分が精神的・社会的に親に寄り掛かる

必要性が低くなってきたことで、

お互いの関係性のバランスが変わり

自分自身が余裕を持って親と関われるように

なったことが要因だと思う。

(親自体はあんまり変わってないけどね)

 

 

 

精神的自立と言うか、

心の距離を置けるようになった一つの要因として

自分が発達障害の診断を受けたことがある。

 

今まで親と自分は「縦にくっついている関係」

で、先述した通り親は自分の舵取りとイコールの

関係だった訳だけれども、

診断を通じて自分のみならず、親を

「一人の人間として」捉えられるようになった。

 

平たく言うなら

「親も親なりに大変だった」という事実を、

自分自身味わった辛さとは別次元として

理解して認める事が出来るようになった感じ。

 

縦のくっつきを切り離して、

それぞれ別物として横並びに客観視

出来るようになったと言うか。(伝わる?)

 

大人になったけど大人になりきれない自分、

その要因や背景を真正面から受け入れたことで

同じように大人になりきれなかった親の気持ちに

寄り添えるようになったからじゃないかと。

 

 

もう一つの、物理的距離に関しては単純な話で。

家を出て、関わりの時間を大幅に減らした事で、

たまに会う際の時間は比較的穏やかに

過ごせるようになるなど互いに余裕が出来た

部分が大きい。

 

嫌なら、距離を置けば良い。

ただそれだけの事だった。

 

何かと理由を付けてムリムリ言っていたけど

それは本当にムリと言うよりか、

その選択肢を選ぶ事でまた親からやいのやいの

言われるのが辛いからヤダ、と言うような

自分を守る為の予防線や言い訳に過ぎなかったし

 

結局のところ、自分が行動する上での

判断基準がいつも親側の言動に起因していた。

 

まあ、自分のようにさくっと家を出られない

事情持ちの人達も沢山いるのは承知だから、

あくまで個人的な話なんだけどね。

 

別に無理して年一帰省したり、

顔見せに行く必要はない。

傷付く事なくいられる距離感でいれば良い。

 

仮にそれでやいのやいの言われる事があっても

あくまでそれは親側の気持ちであるから

無理して応える必要はなくて、

無理なら無理、イヤならイヤと答える自由がある。

たとえ相手が親で、自分が子供でも。

 

そこをしっかり線引きして、

自分にとって心地良い範囲の中で親と関わる。

その範囲を自らの意志で選んで家族と関わる、

本当はただそれだけで良い。

 

たとえ相手は変えられなくても、

自分の心持ちや自分の行動については

自分で選ぶことが出来る。それを忘れないこと。

 

相手のせい相手のせい親のせい親のせい…

ってずっと思っていたけど、

親と自分の過去を受け入れて手離して、

適切な距離を保つようにしたら、あら不思議。

 

変われと頼んだ訳でもないのに

五、六年の歳月をかけて少しずつ

親自身も、自分との関係も

何だか丸くなってきた気がしないでもない。

 

何にせよ言えることは、この3つ。

  • 人は変えられないけど自分は変われる
  • 人は誰しも「関係性」の中で存在する
  • 大人になるとあらゆる事が選択できる

 

 

 

 

今まで自分が味わってきた過去は消えない。

苦い記憶も、許せない思いも消せる訳じゃない。

泣いても笑っても親は取り換えられないし、

返品も出来ない。

 

与えられたカードも、ゲーム履歴も、

リセットしたり塗り替える事は出来ないけれど

今後の展開の主導権は、自分が握る事が出来る。

 

 

やら結婚だ、やら親戚付き合いだのが

気になる年齢になってくると

この手の悩みは尽きないけれど、

 

強いられた家族に悩んでいた

あの頃の自分とは、もう違う。

そうするしかないからではなく、

「そうしたい方法で」家族と関わっていく。

 

少し風通しが良くなるだけで

ゲーム展開はガラリと変わる🃏

 

泣きたいとき、怒りをぶつけたいとき、

沢山沢山あったしこれからもそうだろうけど

私が選んだ家族と共になら、ほんの少しだけ

穏やかで優しい私でいられるかもしれない。

 

 

 

みんなみんな、消えてしまえば良いと願った

あの頃の家族はもういない。

 

消えてしまえば良いと願った

過去の自分の痛みも連れて、

選んだ家族へのほんの少しの感謝を添えて。

 

いつか、自分が家族を築く立場になった時

それらの経験が豊かな糧になったらいいな。

 

与えられたカードで、生きて行こう。

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「健康祈願なんて、つまらない」


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年始の参拝のお願い事や、七夕の願い事。

幼少期、何をお願いしたのか大人に尋ねると

「家族の健康」という答えが帰ってきた。

 

非の打ち所の無い、100点の答えだ。

そして、つまらない。面白味がない。

 

もっと派手な事願えば良いのに~

そう思ったこと、あなたはある?

私は何度もある。

 

 

 

ありきたりな答えはなんかイヤで、

かと言って顔も知らぬ神様にあれもこれもと

お願いしまくるのも何となくイヤで、

お願い事ではなく「これを頑張る」

という決意を伝えていた時期もある

中二病かな)

 

「今ある幸せが続きますように」

そんなお願い事をしていた時期もある

(メンヘラかな)

 

 

 

人生は山あり、谷あり。

30年ぽっちも生きていない訳で

偉そうに語れる立場でもないけれど

 

努力だけで手に入らない物がある現実も、

運だけでガラッと風向きが変わる分岐点も

確かにこの世には存在する。

そんな事ぐらいは分かるようになってきた。

 

 

そしてどんな幸せも、生活も、

自分と周りの健康なくしては手に入らない。

 

健康って簡単なようで実は維持管理が難しい。

お金、環境、メンタル、仕事、食、運、努力、

全部の要素がバランス良く必要で。

努力ばかりしてても運が悪ければ癌になるし、

生まれ持った健康体でも管理できなければ

二型糖尿病になる。

 

実は、質素なようで、つまらないようで

一番気高くて最高級のお願い事なのかもしれない。

 

自分どころか、家族のそれまで

願っちゃう訳だからね。

 

今となってはそれが

とりあえずでも何でもなく、当時の大人の

心からの願いであった事が何となく分かる。

自分も、年とったのかなあ~。

 

 

大人になると、まっさらに人を頼ったり

何かを頼むことが難しくなる。

 

周りの誰の顔色も伺わず、

ただまっさらに自らに問いかけて

今感じる、最大級の願いを想う。

儚げで少し贅沢な大人の遊びかもしれない。

 

 

 

そんな事を考えながら、

財布から適当な小銭を取り出し

賽銭箱に投げ入れる。

 

両手をあわせて、

家族と自分の健康を祈る。

今年も良い年になりますように。

 


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「お気持ち大掃除のコツ2019」


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年末の大掃除、もう着手してる~?

わが家はと言うと、アパートの下の階に

お住まいの方がたいそう音に敏感なお方でして

ご不在なタイミングを伺いながら大掃除に

取り掛かる予定。(なんじゃそりゃ)

 

それはそうと、

今日は「お気持ちの大掃除」な話。

大掃除して葬り去りたい感情の一つや二つ

うまく手放して身軽になる術

何かと考えた一年だった。それを書いていく。

 

 

 

手放したい過去や感情

あなたにはある?私は山のようにある。

  • 仕事で大失敗して嫌われた過去
  • 親が憎くて憎くて恨めしかった感情
  • 障害特性や診断絡みのコンプレックス

 

 

 

 

世の中には前向きな思考が沢山存在している。

上を向いて歩こう~」

「明日はきっと良い日になる~」

「負けないでもう少し最後まで走り抜けて~」

 

 

 

 

分かる。分かるんだけどね。

 

過去も失敗も、切り離して前向きになれたら

それは素晴らしいし、それに越した事はない。

 

けど、頭で分かっていても何がどうしてなのか

それが難しいのがお気持ちで。何なんだろうね。

 

振り払っても振り払っても、

常に脳裏に姿を表してはチクチクと

今の自分にまとわりついてくる。

 

気にしない、気にしないと顔を背け続けて

やっといなくなったように思えても

また突然現れては自分の足を引っ張る。

 

どうしたら撃退できるのか、

いなくなってくれるのか、

お別れして次のステージに行けるのか、

 

お気持ちモンスターのお掃除方法は、

私にとって永遠の課題だ。

君らをお掃除出来れば、もっと身軽で綺麗な

新しい自分になれるかもしれないのに…!

そんなジレンマと、常に隣り合わせ。

 

 

 

お気持ちモンスターを手懐けろ!

お気持ちモンスターから逃走する方法は

実は無い。あきらめましょう~。

ってのが結論ね。先に書いておく。

 

コイツら振り払えば振り払うほど

脅威かましてくるやっかいな生き物で。

逃げても逃げても永遠に追いかけてくる。

 

だから、完全に離れる方法を案ずるよりも

いかに上手く手懐けていくかが重要なのかと。

 

 

たとえば、この界隈でありがちな

親を許せない。憎い。恨めしい。

あんな毒親じゃなければ自分は

もっと良い人生遅れたかもしれないのに…

みたいなお気持ちがあるとして。

 

いくら他人から

親に感謝して生きていきましょう。

子供を育て上げるのは大変な事です。

どんな親でも必ず良い面があります😇

 

とか言われた所で、まず沸き上がる感情は

「知らねぇ~。そんなん関係ないわ!!!」

「それは良い親だったから言えるんでしょ」

「私が辛かった事実は変わりない」⏪

 

こうなるよね。 ここで特に大事なのは、

「私が辛かった」の部分じゃないかと思う。

敵を攻略するには、まず分析から。と言うことで

「私が辛かった」にフォーカスを当てながら、

お気持ちモンスターについて分析していく🔍

 

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お気持ちモンスターの正体は?

仕事のこと、家族のこと、容姿のこと、

過去の経験のこと、自分自身のこと…

お気持ちモンスターには無限に種類があれど

共通するのは自分の感情が強く絡んでいること。

 

ただ「失敗しちゃった~あちゃ~!」

ぐらいの経験なら、それは過去の記憶(事実)

として残るだけで、お気持ちモンスター化しない。

 

同じような経験があっても、

モンスター化する人としない人がいるのは

ここが原因で。その時に何を感じたかという

認知や感情の部分でどんな衝撃や傷を受けたかに

個人差があるからじゃないかと思う。

 

たとえ経験の内容が似ている二人がいても、

「あら~」で通る人もいれば、

お気持ちモンスターとして一生残る人もいる。

 

「負けないでもう少し~♪」と

綺麗事を訴えられて響くのは「あら~」派の人。

お気持ちモンスターはびくともしないことを

よく覚えておいて欲しい。(誰?)



問題の核は事象その物ではなく気持ちだから。

 


自分自身が感じた恐怖、不安、不信感、

敗北感、孤独感、絶望感、嫌悪感。

それらをちゃんと紐解かない限り、

外界から「親という存在が云々」解かれても

全く意味がない。むしろそういった不の感情を

感じた過去にさえ圧で負荷をかける事になり

逆効果だ。

 

だから、モンスターは肥大化する。

正論で振り払って全力で逃げても逃げても

永遠に後を追ってくる。それは、

モンスターの正体が自分自身だから。

 

 

根幹の問題は自分にある。

そこをいかに紐解いていけるかが、

お気持ちモンスター手懐けの鍵🔑

 

 

 

お気持ちモンスターと向き合う

さて、お気持ちモンスターの正体が

自分自身の過去の感情に起因する

ことが分かった訳だけど、ではどうすれば

そやつと上手く付き合えるのか?

 

必要ステップは

  1. 自分と他人を分けること
  2. 事実と感情を分けること
  3. 感情を労って抱き締めること

 

この三点。特に大事なのは一番の

自他との境界線を持てるようになること。

 

だって経験と、世の規範と、自分と、感情と

全部ごっちゃになって「嫌」という塊で

そこに存在するからモンスターな訳だからね。

そこを分けなきゃ話が始まらないし、

 

「会社がー!」「親がー!」って

私はこんなにヒドイ仕打ちを受けました

って「外」に関するエピソードが

話の核のままじゃいつまでたっても紐解けないし

自分の感情に到達しない限り

お気持ちモンスターはびくともしないからね。

 

 

たとえそれが実際に辛く養護しようのない

ヒドくて理不尽で残酷な経験だったとしても、

それはそれとして一旦横に置いて、

別物として俯瞰するという術を身に付ける事が

必要不可欠。許せとか否定するなとかではなく、

一旦横に置いて分ける、それだけで良い。

 

で、二番も考え方としては同じで

経験と感情分けること。まあ分けなくても

感情をしっかり独立して捉えられればオッケー

 

経験、レベルで終わってしまうとそこから

動きようがないけど経験から→自分はどう感じて

何が辛かったのか?傷付いたのか?本当は

何を望んでいて、どうして欲しかったのか?

ここを紐解く。

 

まあ何だかんだココのプロセスが一番

だるいというかやりたくないと言うか、

そもそも辛い記憶思い出したくないし、

防衛反応的に覚えてない事も多いし、

 

自分の本音や欲求、みたいな部分は

脆くて恰好悪い事が本当に多い。

大半は、誰かや親に愛して欲しかったとか

認めて欲しかったとか、褒めて欲しかったとか、

必要とされたかったとか、承認欲求やら

親との愛着の問題に行き着く事が私は多い。

 

そんなん、認めたくないからあまり

紐解きたくもないんだよね~。

親が「ヒドかった!」事にしとく方が何か

楽だし、自分の脆さには触れなくて良いし。

 

モンスターちゃんが脅威のままって事は

大人になった今でもそこが継続している

証拠でもあるからね。だから、残っている。

 

 

 

モンスターを抱きしめてあげる

最後、三番目。過去の自分の感情を労って

抱きしめてあげること。これがゴール。

たとえそれがどれだけ脆くて恰好悪くても

 

よく頑張ったね、って認めてあげること。

 

私はそんな脆くない!幼稚じゃない!

悪いのは親だ、会社だ、世の中だ!!!って

ご不満が先攻してるうちは、この脆さや核まで

たどり着けていないと言うか、まだ辛くて

そこまで身ぐるみ剥がせる時期ではないか

のどちらかだから、まあ人によって進められる

ペースやら余力やらは色々だよね。

 

今まで顔を背けて、ほうき振り回して、

あっち行け!来るな!しんじゃえ!消えろ!

って追い払っていたお気持ちモンスターと

一度対面して、隣に座って話を聞いてみる。

 

一番、二番のステップをちゃんと踏んで

過去の自分より少し大人になったあなたなら

「そっか…それは辛かったね。大変だったね」

って声をかけて、抱き締めてあげられるはず。

 

(一番、二番が上手く行ってないと、ここで

反論やら叱咤激励なんぞ浴びせてしまうから注意)

 

そこまでが上手くいけばあら不思議、

過去は変えられないし、傷も消えないし、

辛かった事実は変わらないはずなのに

お気持ちモンスターは必ずマイルドになる。

 

そこにはいるけど、もう脅威じゃなくなる。

いつもチクチク、とげとげと自分に

まとわりついて離れなかった邪魔物が

柔らかくて軽くてコンパクトな付き人になる。

 

まあ元が元だから、ちょっと不格好だし

かさばる時もあるし、足元で目障りな事も

あるけど、敵ではなくなる訳だら、ね。

 

 

嫌な過去、辛い記憶、許せない思い。

否定したり消したりしなくて良いから

ちゃんとその根本にあるモンスターの思いを

汲み取って聞いてあげる。そして許す。

 

 

これを私は「手離す」と呼んでいる。

私には、モンスター 御一行様ずらっといて

手放せてマイルド化した子も、

そうでない子も沢山いるんだけど

 

 

どんどんお掃除上手になっていければ

いいなあと思っている。

 

あわただしく過ぎる年末の日々、

ADHDらしさ全開で部屋は散らかったままですが

せめてお気持ちモンスターくらいは手懐けて

少し軽くなって新年向かえたいものです。

 

ではでは、良いお年を。
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「ピクルス大売出し戦略!」


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ピクルスって知ってる?

マックのハンバーガーめくったときに

ちまっと乗っている緑色のアレ。

苦いような、酸味があるような、アレ。

今日はちょっと、ピクルスについての話。

 

 

 

「ピクルスなんていらな~い」

わたしが小さかった頃、

母と弟と私でよくマクドナルドに行った。

幼馴染の友達がいて、母同士も親しかった。

 

弟と私、友達はハッピーセット

母達は適当なセットと珈琲を頼んで

終わりのないお喋りを楽しむ間、

子供たちをプレイルームに放流する。

トンネルみたいな遊具があって、

靴脱いで遊ぶところね。

 

私達子供勢は“遊ぶこと”が目的だから

さっさと食事を終えてプレイルームヘと

走る、マックはそういう場所だった。

 

私はナゲットのセットをよく頼んだけど

弟はハンバーガーセットが好きだった。

そして決まってこう言う。

 

 

 

「ピクルスいらない~」

 

 

私が言うと思った?

違うよ。弟ね、弟。

 

弟は根っからの「食わず嫌い大王」で

嫌い(と思われるもの)は何があっても

口に入れたがらないし、

チャレンジもしない主義。

 

タコ焼きのタコが嫌いで、

わざわざほじくり出して食べるもんだから

「それじゃ“やきやき”だよ~」って

母や私に言われていたし

 

ケンタッキーの肉より衣が好きで、

衣だけはがしてむしゃむしゃ味わって

悲しく残された鶏の残骸…😇

みたいなエピソードがいくつかある。

 

 

もちろん、ピクルスもその一つ。

 

ハンバーガーの包み紙を開けるなりまず

最上段に乗っているパンズをひっくり返し

「いらない~」ってピクルスをつまんで

クレーンゲームのごとく移動する🏗️

 

 

私は、と言うと

「いらないなら食べる!」と言って

毎度毎度その捕獲して隅に寄せられた

ピクルスをむしゃむしゃと食べていた。

 

とりわけピクルスが

「大好き」という訳でもなかったけれど

残すのはなんかもったいないから、

という子供心なりの配慮だったのか、

単に根っからのケチだっただけなのか。

 

ピクルスから始まるランチタイム。

その後味は、あっという間に

ケチャップ付きのナゲットや、

オレンジジュースや、

プレイルームヘの高揚感にかき消されて

どんなだったのかもよく覚えていない。

 

「いらない」とつまみ出されるピクルス、

そんな光景がやんわりと記憶に残っている。

 

 

 

 

ピクルスみたいな半生

時系列を現代に戻す。

先日、有休をとって平日の朝から

カフェでモーニングを食べながらふと

そんな考えが頭に浮かんだりした。

 

 

別に、さぼっている訳じゃないし

真面目にやれる事は頑張ってきたし

まあトチる事もあったけど

盛大に❌がつくような躓きではなかった。

 

周りに合わせよう合わせようとしているのに

何となく周りから浮いてしまったり、

クセがあるとか言われたり、

いらないとつまみ出されてしまったり。

 

 

まるで、自分を消して

ちゃんとバーガーに馴染もうと

ケチャップを塗りたくられるピクルスみたい。

レタス入ってまっせ!!みたいな主張は無いし

人参のように彩り要因で用いられる事も無い、

ピーマンみたいな特徴的な苦味も無い。

決しておかずの中心にもなれないけど、

脇役を徹してバーガーの中に潜んで自分を消して

 

 

「周りの風味を損ねないように」

「邪魔しないように」

 

 

そんな思いで必死に擬態して息を潜めても

いらない、の一言でつまみ出されるし、

かろうじて口に入っても特にどう

記憶にとどまることもなく流れていく。

なんかなあ…という半生だった。

 

 

自分を変えたい!ピーマンになろう!と、

あれこれ試したり背伸びしたりもしてみたけど

やはりピクルスはピクルスだった。

 

苺になりたいとか贅沢言ってないし、

「ただただ普通に」食べてもらえたら

それで良いのに、それすら出来ない。

ケチャップにまみれて、息をひそめて、

いらないいらないってつまみ出されて

みんなにペコペコしていくしかないだなんて

 

何が楽しくて

ピクルスに生まれてしまったんだか。

そんな風に思ったりした。

 

 

どれだけ背伸びしても、

色んな物を塗りたくっても、

ピクルスはピクルスで

ピーマンにも胡瓜にも苺にもなれない。

どうしようもない。

 

 

 

 

ピクルスのニーズはどこにある?

 

そんな、ピクルスに共感するなど

意味不明さ満載な回想をかき消して、

慌ただしい現実世界へと戻る。

持ち帰ってきた仕事をして、作業をして、

あっと言う間に一日は進んで

昼も食べ忘れて夕方になった。

 

そろそろ何か食べようかなあ。

大通りを歩いていると、

ベローチェの看板が目に入った。

 

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お店に入ってメニューを見る。

暖かい飲み物と、何か食べたいなあ。

ホットドックが良いかな。どれが良いかな。

 

 

メニューをぐるぐると巡っていた視線が、

一つのメニューにとまった。

 

 

 

 

 


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「たっぷりピクルス」

 

 

 

 

あ、こんな所にピクルスがいた。

たまたまなのか、偶然なのか。

 

そういえばこの前もイベント帰りに

お腹空かせて入ったベローチェ

コレを食べたっけ。

 

主役は勿論ソーセージだけど、

細かく刻んだピクルスの食感が心地良くて

チーズだと何かくどい、って気分の時に

丁度良いんだよなあ。

 

そういえば、ベローチェ来るとき

何だかんだいつもこれ食べてるなあ。

 

マイナーな食材を全面に押してるのに、

期間限定じゃなくてレギュラーメニュー

なんだよなあ。意外と人気あるのかもね。

 

 

君はここで居場所を見つけられたんだね、

ちゃんとニーズはあるもんだね、

そんな風に思えてちょっとクスッとした。

 

 

 

ピクルスにも居場所がある

きっとピクルスみたいに

生きていけば良いんだと思う。

 

やっぱりピクルスはピクルスで、

煮ようが焼こうが違う何かにはなれないし

不特定多数の全員に好かれることはない。

 

20年前も、令和元年も、

ハッピーセットどストライク層に

たっぷりピクルスが受入れられはしないし、

皆がこぞってピクルスを買い求める時代は

この先もきっとこない。

 

 

けど、いつの時代にも

ちゃんとピクルスを好む誰かはいる訳で

それらが活きて必要とされる状況が

なくなることはない。

 

もちろん、世の中の流通市場から

全ての苺がとっぱらわれる事があれば、

ピクルス全滅よりも世への影響は

大きい気はするけれど、

 

世のどこかには必ず

たっぷりピクルスのかかった

ホットドックを頬張って

活力を得ている人達がいる。

 

まあ、マックという巨大市場がある以上

ケチャップにまみれてハンバーガーの

引き立て役に徹するのもまた一つの生き方で。

 

一部の層から相変わらず

つまみ出され続けてはいるけど、

ハンバーガーの中にさりげなく潜む

ピクルスの食感を好む誰かがいるからこそ

20年の時を超えてもなお、そこにある訳で。

 

 

 

いろんな存在があって良いし、

いろんな生き方があって良い。

 

 

 

擬態に徹して裏方のプロを目指すも良し、

ホットドック最前線で彩り役を極めるも良し。

 

苺も、ピーマンも、ピクルスも、

それぞれに強みと弱みがあって、

それぞれに適したニーズがある。

苺になれなくたって、良いじゃんね。

 

自分にとって一番の調理法を考えながら

今日も明日も、生きていく。

 

 


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ADHD対策集2~脳より物に頼れ!~

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さてさて、
・一昨日は具体策検討の背景とベースの話
・昨日は具体策5選と心得の話
をした訳だけど今日は残りの5選をご紹介。

と言うか今気付いたんだけど、5の「タスク公開ハック」は既に前記事で書いたや。「…ここから✂️…」の線位置が間違ってる。はい不注意。気にせず行きましょう~。


★みょーんと伸びる定期入れ

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(躓く原因)
鞄に入れる時⇔使う時
ここに絶対なるタイムラグがあるが故に「あれ?どこ入れたっけ?」とあたふたする。

(対策)
3、ワンアクセス化
紐で繋がっていれば「同じ場所に強制的に戻る」ので、あたふたしなくて良し。ワンパターンしか生まれない仕組みで、改札前のドタバタを解消。



★お弁当記録で習慣化ハック

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(躓く原因)
そもそも私、料理も弁当作りも好きじゃない。面倒くさい。やりたくない。はいドーパミン枯渇~🍂

(対策)
1、ドーパミン分泌(見栄の力駆使)
昨日の記事の「タスク公開」と基礎原理は同じで「載せると誰かが褒めてくれる」「成果が目に見えて蓄積されていく」ことを原動力に、ドーパミンを出す!

「良い感じのお弁当写真撮ってTwitterに載せよう~」という、趣味の延長みたいな位置付けにしてしまえば、少しだけやる気が沸き起こる。かも。




社員証にメモ&ペンセット

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(躓く原因)
(やばいコレはメモ取らないと覚えられない…)というシチュエーションに、突如陥りかち。予想外のタイミングで上司が話を振ってきた時、自席じゃない所で電話を取ってしまった時(ペンとメモ用紙が無い…!)状況は本当に致命的。後でメモしよう~と思ったが最後、絶対に忘れます。絶対に。

(対策)
2、視覚化でインプット簡略化
3、タイムラグなくしその場でメモ
ネームホルダーの裏側に、メモがセット出来る物を使用。ペンもネームホルダーに常時引っかけてる。「ネームホルダー メモ」で検索すると色々出てくるよ~🔍

とにかく自分がどこに動こうともメモとペンだけは絶対に所持していて、勤務時間中、常にメモが取れる体制をキープ。

上司が話始めたら相手の話を遮らず(すみません、メモ取ってきますみたいな間が生まれない)ササッとメモを取り始められるので「この人は誠意的に聞こうとする姿勢がある」という印象付けにも繋がる。

このパターンでメモ始めると「何それ便利だね!」って相手からお声かけ頂けることもあって。その度に「三歩歩くと忘れるタイプなのでメモは必須なんですよ~😇」という感じでさらっと特性伝達のきっかけ作りもできちゃう。一石二鳥。


ちなみに…

「私、忘れっぽいなりに自ら対策してますよ」って、視覚的に人に伝わる形で色々と取り組む姿勢は、周りからの理解や信頼を得る上で本当に大切だと実感している。「あの子は、自分なりにやれる事精一杯やろうとしている(ポンコツだけど)」って認めてもらえて始めて“何か配慮出来ることある?”って周りに思ってもらえるスタート地点に立てたりするからね。本当に大事。





★100円均一で衝動性発散対策

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(躓く原因)
何だかめちゃめちゃ衝動性が炸裂している!アレもコレも買いたい!買い漁りたい!!!そんな気分になること、ない?私は往々にしてある。

日頃、社会生活を営む上で押さえ付けている特性が爆発するんだろうねえ。どうにかしないとお財布が危機に陥る。服なんぞ衝動買いした日には、どえらい事になる。

(対策)
1、ドーパミン分泌促進
そもそも押さえている衝動性が暴れている訳だから、更に押さえ込むよりか被害の少ない形で発散させてあげるのがベター。

「今、衝動ちゃんが顔を覗かせているな」って感じたら、服屋やら雑貨屋やらをスルーして、五千円札にぎりしめて100均へ。好きなものを好きなだけ買ってオッケー!というルールで買いまくる。

カゴ一杯に詰め込む頃には、何となく衝動性は落ち着いていて、もう良いかな…ってなる。「買いたい」欲求が満たされるのと、100均って視覚刺激が多くてわちゃわちゃしてる所が多いから、回ってるうちにクタクタになってもういいわってなるお陰かと。

経験上、カゴ一杯買っても大体2000円台後半~3000円台にはおさまる。服一着買うよりもローダメージだし、あくまで目的は衝動性を適切に消化する事だから、後々我に帰って「これイラネ」ってなっても100円ぐらいなら比較的罪悪感なく処分出来る。

バーってドーパミン分泌されて、思いもよらぬ集中モードになってしまう特性を逆手に取る対策方法。案外すっきりするし、ストレス解消にもなるし、衝動性に負けたのではなく「自らの意識の範囲内でコントロール出来た」感を得られるのが肝。





★書類は立ててワンアクセス化

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(躓く原因)
「見えないものは、無いのと同じ」状態と化すのが、ADHD民の定め。書類を重ねてしまおうものなら、重ねたが最後、永遠の別れ。完全に失念され、書類地層の奥の奥へと追いやられ、締切り後に地層の奥底から顔を出したその書類と対面した瞬間の絶望感たるや。

完全に見えなくなるのがダメだし、たとえそこにあるのが分かっていたとしても「上の書類をどかす」という二手間三手間かけずしてアクセス出来ないその状態こそ、先送りや失念のリスクになる。

(対策)
2、視覚化してインプット簡易化
3、タイムラグなくしワンアクセス化
とりあえず立てる!案件ごとにクリアファイルやら何やらにぶちこんで立てる!机の中でも上でも原則は同じ。

何かを探すときの手間が圧倒的に減るし、メモとかひらひらどこか行ってしまわないようにクリアファイルに入れる事を習慣化してる。

縦にする事で全体量が見えやすくなるし、更に「処理中」「保留」とかにカテゴリ分けしたり、インデックスなんかを付けて整理するのも良し🗂️



最後に

以上、ADHD対策10選でした。その他の対策は、モーメントにまとめてあるよ~。

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トップページの右上のボタンね(機種によっては表示が異なるらしい)

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あとね、ツイート検索欄で
#ADHD対策」って検索すると
色んな方の対策集が出てくるよ🔎





ただ、こんな長い記事最後まで粘り強く読んでくれたあなたが相手な訳だから、もしかしてと思って書くけどさ








いくら10選、20選対策を散りばめた所で
生活が見違えるように変わったりは
しないのですわ!!!!!(今さらごめん)




やっぱり、がっつり診断がつくレベルとなると、自助努力だけでは限界があったりする。(めちゃめちゃ凸が秀でていたり、高IQゆえになんか上手く適応出来てしまう人達もいる事はいるけど、私はそうではなかった)



色んな物を読み漁り、
色んな病院を回って、
薬を飲んで、大金はたいて、
色んなグッズを買い、
色んな対策を試み、
色んな人に話を聞いて…


それでも、周りのみんながいとも簡単にできている「そんな当たり前のこと」が出来なくて叱られたり、ふと「私一体何やってるんだ全部無駄じゃないのか」と先が見えなくなって落ち込んだり。


「対策に打ち込むことそのもの」すら、長く続かなかったり、余裕がなかったり。今まで失敗に失敗を重ねてきてズタボロな自己肯定感やら、歪んだ認知やらが足を引っ張ることもあって



やっぱり上手くいかない




そんな感覚は何度も何度も訪れる。トライアンドエラーなんて聞こえの良い話ではなく、トライアンドエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラーエラー(一旦力尽きて)トライ、みたいなのが現実で。


改札をつっかえずに通れるようになったって、見違えて仕事が出来るようにはならないし

スムーズにメモが取れるようになったって、昼休みの雑談タイムをそつなくこなせるようにはならない。




けど、けど、

一つだけ経験から思うのは
たとえ一日二日で見違えるように変われなくても、相変わらずミスまみれやらかしまみれ、周りに迷惑ばかりかけて汚くて格好悪くてどうしようもない自分でも

世を責めず、社会を責めず、
出来ない自分を受け入れてやれる範囲での事をやってみようとするその姿勢を必ず誰かは見てくれている。全員に好かれることはできなくても、

ただひたむきに昨日より今日、変わろうと泥まみれになりながらも生きているあなたを必ず認めてくれる誰かが表れるし、

やれる事をスモールステップで頑張りながら、無理なことは無理と素直に感謝して謝れる姿勢が何より私達当事者が今の社会で生きていくために忘れてはいけない事であって、そのマインドこそ私達が楽にやっていくための近道なんじゃないかと思う。


そのための、ライフハックだから。
これらを用いて大きく変われなくても、
みょーんと伸びる定期入れを使って

「改札で前みたいにもたもたしなくなったぞえらい👏」とほんのちょっとだけ自己承認と、自己へのエールを散りばめながら


周りの人を上手に頼りつつ、感謝と謙虚さを携えて、ただひたむきに生きていく事が出来たならもう120点だと思う。(なんか段々自己弁護みたいな話になってきたぞ)



発達障害は治るのか?治らないのか?

そんな議論がよく話題になるし、私は医者でもなんでもないから真実は分からんし、まあどちらが真実でも別にどうでも良いと思ってるけど、




当事者がライフハックを重ねながら
生き方を変えたり生きづらさを緩和させていくことは出来ると確信している。


私はまだ地を這うようにトライアンドエラーエラーエラーしている最中だけど、そうやって変わって行った人達を沢山見てきた。

障害(ADHD)の診断基準には、「2か所以上で何らかの支障が出ている」項目がある訳で。それを考慮すると、生き方を変えライフハックを身に付けて、生きづらさや支障を解消していけた人達は、ある意味「治った」と言えるのかもしれないね。

(あ~そう書くと炎上するから
寛解」とか「卒業」とでも言っとく?)





何はともあれ私達の道のりは長期戦。
あれこれ試していつも100点にならなくたって良い。あ~またやっちゃったよ~ってTwitterに愚痴吐きながら、帰り道の改札で「スムーズに改札通れるようになったふふふ😇」ってクスッとしながら

なんだか上手くいかない毎日も自分も
ぐるっとそのまま認めてネタにして

今日も明日もしぶとく生きていきたい



世の中の色んな人達から否定されたり、
普通に見えるとか甘えだとか言われたり、


まわりからは見えない脳の特性を持ちながら一人で生きるのは、時に結構しんどいよね。


だから、
頑張れない時は頑張らなくて良いし、
頑張りたい時だけ頑張れば良い。
今日の自分が昨日よりほんの少し身軽にユーモラスに生きていくために、アイディアの引き出しをいっぱいにしよう。そんな思いで書いたライフハック集でした。



一人じゃなくて、みんなでやっていこうね(^^)




話にまとまりがなくて右往左往するのは、ADHDならではのアレなのさ。長々とお付き合い頂いてありがとう。ではでは、良いクリスマスを!

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ADHD対策集1~工夫を散りばめる~

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昨日の記事(「知りたいのは具体策だけ!」)で
具体策検討の基本的考え方を書いたけど、
本記事では具体策10選を並べてみる。

↑こんな感じで、躓く(私なりの)原因と
対策三要素のうちどれが該当するかも添えて。

ADHD具体策10選】

  1. 鍵の紛失対策🔑
  2. 動き出せない時のワイヤレスイヤホン
  3. 失念対策アプリ リマインくん
  4. 家の中の視覚化あれこれ
  5. タスク公開ハック
  6. みょーんと伸びる定期入れ
  7. お弁当記録で習慣化ハック
  8. 社員証にメモペンセット✏️
  9. 100均で衝動性発散対策
  10. 書類は立ててワンアクセス化

★鍵の紛失対策

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玄関ドアの目線の高さに100均で買ったフックを付けて、家の鍵の定位置を作った。
帰宅したら何よりもまず先に鍵をココに戻すので、絶対になくならないし、外出直前に「ないない!」と探し回る事も減った。フックには鍵のイラストを入れて視覚で訴えかけるようにしてる。

(躓く原因)
しまう時&使う時にタイムラグがある→忘れる、
使い終えた時&しまうまでにタイムラグがある
→つい適当なところにポン置きしてしまいがち、
そもそも定位置が決まっていないから紛失する

(対策)
2、視覚化(目に入る位置に鍵マーク)
3、タイムラグをなくす(使う時にしか触れない)

絵が入れられるフックは100円ショップで購入、
イラストはカラー印刷したのを入れたよ~🔑

すこぶる子供っぽいけど、私の実行機能能力は小学生並みだと自負してるからいいんだ。笑


★動き出せない時のワイヤレスイヤホン

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動かなきゃ~だけど、動き出せない~って時。
ワイヤレスイヤホンを購入してから少しだけ
重い腰を上げられることが増えた。なぜかと言うと

(躓く原因)
そもそもやりたくない事なのでやらなきゃ~と思ってもドーパミンが出ない。報酬系の弱さってやつなのか、ただの甘えなのか知らんけど、ADHDには比較的そういうの多いらしい。だからやらなきゃ…って分かってても動き出しがめちゃめちゃ辛い。

(躓く原因2)
そもそも家事とか、ドライヤーとか、出掛ける準備とか、やりながら「頭は暇になるのに、手を動かさなきゃで他のことが出来ない」状態がなんか嫌だったりする。多動脳が暇しちゃうんだろうね。

(対策)
1、ドーパミン分泌を促進:
音楽聞くと、その反応でドーパミンが出るのか「しゃ~ね~動いてやるか~」って気持ちになりやすい。(それでも動けない時もあるけど)音楽のお陰で、頭が暇にならないまま作業できるので、そもそもの億劫さが減る。※ワイヤレスじゃないと、携帯が邪魔だったり、コードが引っ掛かったり、何かと面倒くささが生じて、効果は今一つ。

Amazonでぽちっと購入。ドライヤーとかただただ手だけが拘束される系のタスクも、youtubeの音声聞きながらとか「楽しさをドッキング」出来るようになって、きっと以前よりドーパミンが出てる。はず。


★失念対策アカウント リマインくん

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あ!アレやらなきゃ!って思っても、三歩歩けば失念するのが我らADHD。自分で覚えられないんだから、便利機能に頼りましょ。

(躓く原因)
やらなきゃ!と思った瞬間⇔それをやるべき時
この二つに「タイムラグ」があるから忘れる。ただのメモじゃ、「メモした事」を忘れるから開かない。どこに、何に、何をメモした事さえ忘れるという一般人離れした失念ハプニングをかましがち。

メモを「残す」だけでなく、その覚え書きを、実行すべきタイミングで再度思い起こさせてくれる仕組みが必要。(それがリマインくん!)

(対策)
2、視覚化(携帯画面にタスクを表示させる)
3、タイムラグなくす(思い出してすぐ出来る)

リマインくんをLINEで友達登録。忘れたくないことをLINEで送信し、リマインドして欲しい日時を指定。やるべき時間になると、リマインくんからLINEメッセージが届くので「タイムラグなく」やらなきゃ!→やろうに取りかかれる。とても便利。

しかも無料だよ!ありがたき時代🙏


★家の中の視覚化あれこれ

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何がどうって細かい説明は面倒なので割愛するけど、見ての通り。全てに共通してるのが「パッと見で何すれば良いかが分かる」こと。

(躓く原因)
やるべき事がぼんやりしている or 明確に決まってない。決まっててもなんかやりたくない。

※私は視覚優位な人間なので、頭の中にタスク詰まった状態でも、今一繋がりが悪いと言うか、すぐ隅に追いやられてしまう。

(対策)
1、やるべき事を明確に定め、それを視覚化
ぱっと視覚で訴える何かがあるのと無いのとで、さあやろうかって思えたり、そもそも「やらなきゃいけなかった」って発想が降りて来なかったり(←私は日々こんなんばっかり)かなり変わる。

  • あれやってね~っていう音声指示やら、
  • あれやらねば~って心の声やら、

小鳥のさえずりレベルでしか私の意思には届かないから、視覚で訴えかけるのがベスト。どうせ訴えかけるなら、可愛く、スマートに、なんか良さげな感じで!

それでも出来ない事は山のようにあるけど、それはもう心からやりたくない訳だからどうしようもない。諦める🐦笑


★タスク公開ハック


やること山積みだけどやる気ない~。そんな時、とりあえずTwitterでタスクリストを大公開。

何気無く書いているように見えて、私にとってはかなり強力なADHD対策の一つ。これやるとやらんとで、一日の終わりには天と地の差が生じる。

(躓く原因)
やる気になれない!だって全部こなしても誰も褒めてくれない!全部まばらなタスクだから達成感も感じられない!やらないと「怒られる」だけで、できても何も報酬が得られない!何か訳分からんタスクが乱立してる状況がもう嫌だ!やりたくない!!!(どうしようもない性格だよねホント)

もうちょい端的に書くと、

  • 報酬が得られないからヤダ
  • 見通しが立たなくて何かムリ

→だからドーパミンは出ないし、先送る。

一つ一つのタスクを「実行する能力が無い」訳でなくて、能力はあるし、必要性もよく理解はしているけど、こんな形で存在しているタスクはエンジンがかからない。敬遠候補、No1!✨

(対策)
1、ドーパミン出力(→見栄の力を駆使)
2、視覚化して見通し立て(→負荷軽減)

ドーパミンの出力:見栄の力を駆使

これはADHDがどうのってより、私の性格に統合させ生まれたハックなんだけど。とにかく見栄っぱりで負けず嫌いだから、

「公開してた癖にムリだったねやーい」

という視線を浴びる事に耐え兼ね、なぜだか頑張れたりする。まあ実際にそんな声浴びた事一度も無いけど、自分の中の“プライド高子ちゃん”がドーパミン大量に放出してくれてるんだろうね。

タスク達成と報酬をセット化する

おまけに、達成できてもできなくても、優しいフォロワーさん方が労いの言葉をかけてくれたり「一緒に頑張りましょう」って言ってくれたり、公開するだけで自分にとっての報酬が生まれるわけ。なんたる優しい世界🌏!

書き出すことで見通し立て&負担軽減

加えて、頭の中に乱立していたぐちゃぐちゃタスクを一つ一つ書き出して並べる事に意味があって。ぐっちゃぐちゃなお道具箱(もう死語?)をひっくり返して、中身を全部並べるようなイメージ。

ぐちゃぐちゃ入ってて、全貌も見えないし、何となく引き出しも開かないと、おそろしみを感じでパンドラの箱と化すけど、

中身が把握できて、一つ一つが小物であることを手にとって確認できたら、ちょいとだけハードルが下がったりする(まあ小物の片付けも面倒は面倒なんだけどね)

自分はこの「見通しが立たない」ぼやっとした状態が【 不快 of 不快!】なので、そこをクリアにするだけでそもそもの億劫さもワンランク下がる。

あと、スマホのアプリ何個も何個も裏で起動させたまくってると電池食うのと同じで、タスク脳内で背負ったままにすると消耗し続けるから、

一旦アウトプットして、背負ってたのを(紙やらTwitterやらデータやらに)降ろす作業を意識化するだけで、ちょいとばかしメモリの節約になる。

必要な対策は人によって違う

なんか疲れて来たので、
後半5ハックは次記事にします。
いつも気まぐれでごめん🙇

長々と色々と書いたのは、
それを読み込んで欲しいって訳じゃなくて
同じADHDという診断が降りていても
さらに踏み込んだ特性や性格の面が
マッチしなければハマらない対策も沢山ある

ことの根拠提示みたいなもん。

やみくもにトライアンドエラー
繰り返すだけじゃなくて
「なぜ躓くのか」にフォーカスを当てて
対策を練れたら効率的なのかもね。

まあそれを1からやるって
ほんと気が遠くなるしダル過ぎるから
人のを真似たり参考にしたりしながら
自分流にアレンジを加えていく
のが
ベターかなって思う。

とは言え、色々対策立てたくても
それに取っ掛かる余裕がないー!
ってのが我々の悩みだよね。わかる。

この記事最後まで読んだんだから、
あなたは忍耐あるよ。頑張ってるよ。
私なら絶対最後まで読めないわ飽きちゃう…

対策って頑張り始めるとキリ無いから
頑張り過ぎると息切れします。確実に。
ライフハック記事書いておきながら
最後にちゃぶ台返すのも何なんだけど、

どんなにやっても対策しても
周りと同じように出来ない事は沢山ある

その現実から逃げずに、許し受け入れて

自分の出来る範囲を適切に見極めた上で
細く長くライフハックを装備していく

それが一番大事な心得だと思う。
具体策は趣味の延長程度でオッケー

その範囲を超越した「出来ないこと」は
まず周りに頼ったり感謝したり謝ったりで
何とか生き抜く環境を整えればそれで良し
(でもそれが一番難しいよねそうだね)

悩んだり匙投げたりしながら、
ぼちぼちやっていこうね。

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「知りたいのは具体策だけ!」

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綺麗事や精神論、

他の人がどうとか、世の中がどうとか。

そんな事はぶっちゃけどうだって良い。

 

ただ、私が知りたいのは

ADHDで器用に生きられない私が

どうしたらより良く楽に生きていけるのか」

その具体的方法だけ、本当にコレに尽きる。

 

それが知りたくて何冊もの書籍を読み漁った。

研修会にも参加したし、当事者のブログや

アカウントも片っ端から読み込んだ。

 

そして気付いた事が一つ。

自分の特性や困り事を100%網羅した完璧なる

情報源なんて存在しないし、それに近しい物を

発信している媒体はほんの一握り。

 

なぜか?

 

(ごくごく当たり前の事を言います)

同じ診断名でも、似たような困り事でも

その根本的原因や背景が一人一人違うから。

だから、「コレ!」と言った万人に当てはまる

不動の無敵対策なんぞ存在しない。無い。

 

そもそも書籍とか大衆メディアっていうのは

コアな層ではなく、広く多くの人にニーズのある

情報を価値として販売し、利益を得る物だから

そんなコアターゲット向けの情報だけ集めても

金にならない。そりゃそうだ。なのでどうしても

 

ADHDで不注意な人はメモを取りましょう」

みたいな比較的多くの人に該当する“総論”的な

情報が中心になる。知りたいのはそれじゃない。

 

コアな人達(つまりは自分と似た特性持ち)が

発信しているリアルな声を参考にしたい…

こうして私は「Twitter市場」(?)に

足を踏み入れた。

 

対策を練るにあたってのポイント

さてさて、Twitter界隈では多くの当事者が

あらゆる形で日々の困り事や対策の数々を

公開している。指一本でこれらの情報に

無料でアクセスできる。(なんて良い時代!)

 

情報をかき集めるのは簡単だ。ただ、

ここから大事なのは、冒頭でも述べた通り

具体的な情報に沢山アクセスできても、

「それらを特性や困り事と投合させて自らに合う物を選別したり、アレンジして取り入れていく事ができなければ意味がない」

ということ。

 

つまり!

 

自分の「なぜ躓くのか」という

原因にフォーカスした取り入れ方をしない限り

宝の持ち腐れになってしまうってこと。

 

こういうの、子供達は「療育」の場で

専門職のアドバイスを受けながら

練って行くんもんなんだろうけどね。

 

アラサー女を受け入れてくれる

放課後デイはなかなか無いように思われるので

日々トライアンドエラーを繰り返しながら

自分にハマる具体策を模索していく事にした。

 

具体策には三つのパターンがある

ここからは模索を経て現状感じている

「自分に該当する」レベルの話なので

根拠は個人素人の主観のみ、あなたにも

同じことが言えるのかは分からん。

 

躓く「原因」については話が細かくなるので

具体策と合わせてお伝えするとして、

それらを踏まえた対策には次の三つの要素のうち

一つないしそれ以上が含まれている事が多い。

 

  1. ドーパミン分泌を推奨(やる気を後押し)
  2. 視覚化する事でインプットを簡略化
  3. タイムラグをなくしてワンアクセス化

 

逆を言うなら、これら三つが出来ないから

困ってしまうことが山のようにある。

 

  1. やる気が起きず始動不可(→先伸ばし)
  2. ごちゃついた情報を一辺に取り込めない
  3. タイムラグが生じるから抜け漏れ多発

 

さらにコレを噛み砕くと、

大本の大本はADHDの脳特性に行着く事が

めちゃめちゃ多いんだけど、それはあくまで

私個人の場合の話なので割愛する。

 

今一、話がぼやっとしていて意味不明なので

「具体例10選」(予定)を次の記事で

 

  • 躓く原因
  • 三要素のうちどれを含んだ対策か

 

とセットでお伝えしようと思うので

お暇な人は読んでね~

 

障害か、障害じゃないかとかに関わらず

各々自分の苦手に合った対策をチョイスできる、

その為の引出しが沢山あってそこにスムーズに

アクセスできる、そんな社会になったら

良いよねって個人的にいつも思っている。

 

社会を変えることは出来ないけれど、

自分と接するほんのわずかな人達の

気付きや認知に働きかける事は出来る訳で。

 

そんな些細な変化を起こす人が10000人集まれば

いつか社会は変わるかもしれなくて、

そう考えるとわくわくするよね。

 

「こうであってほしかった」社会を

我が子世代にプレゼントできますように🎁

そんな大人でありたい。って何の話やねん。


~次記事に続く~


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「すみません星人を脱出せよ!」

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私はふっと気を抜くと

事あるごとに「すみません」が口から出る。

いつもやらかして、周りに迷惑かけて

またやってしまったごめんなさいすみません…

もはや立派な 【すみません星人👾】。

 

すみませんには三つの意味合いがある。f:id:pino_27s:20191217192306j:image

たしかに

「こんなことしてしまって、気が済みません」

って【私】を主語に発している事が

大半な気がする。

 

「ごめんなさい【私を】叱らないで」

「すみません【私を】嫌いにならないで」

 

物腰柔らかで、低姿勢なように見えて

実は自分のことしか頭になくてとりあえず

その場を取り繕うために条件反射の如く

涌き出てくるワードだったりする。

(一体どんな人生送ってきたんだろうね)

 

 

 

すみません星人がどん底を見た

そんな、

すみません星人として生きてきた私だけど

大人になって、とある大失敗大挫折を経て

すみません連呼じゃビクともしない程の

どん底に突き落とされた事がある。

 

すみませんすみません、謝っても謝っても

周りには距離を置かれ

「もう謝らなくて良いから」

「どうすべきかを考えなさい」

と叱責された。

 

「すみません」じゃ駄目みたいだ、

謝るんじゃなくて根本的解決策を見つけないと。

それは分かってる、けど解決策が分からない、

もがいてももがいても突破口が見つからない。

 

口から出てくるのはいつだって「すみません」

意思に反して目から出るのは涙ばかりで

そうじゃないそれじゃない物ばかりしか

自分からは出てこない。空っぽだ。何もない。

海底から海面を見上げるような気分だった。


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行き着いた先

一人で、孤独で、藁をも掴む思いで

たどり着いたのがメンタルクリニック

与えられたカードが「診断」だった。

 

そこからの過程や詳細は省略するけど、

失敗して「(気が)すみません」だけじゃなくて

少しずつ、少しずつだけど

対処を考えることができるようになった。

 

なぜか?

 

きっと良い意味であきらめが付いたから。

「諦める」の語源が大好きなんだけど、

「明らかに」「認める」→諦める

ってことらしくて、言葉の通り

自分のありのままが「明らかになって・認める」

事が出来るようになったから、

「気が済む」ようになったんだろうね。

 

今まで「済まない~」で通りすぎてた

ありとあらゆる不全感の実態が

少しずつだけど明らかになっていく。

 

少し軽くなって海底から

ふわふわ浮けるようになってきたら

ちょっと別の景色が見えてきた。

 

 

あらゆる事の有り難さ

一度でもどん底を味わうと

それまで何でもなかった日常の一つ一つが

いかに尊くて素晴らしいものかが

涙が出るくらい分かるようになる。

 

  • やりたい事があること
  • 普通に考えられること
  • 食べられること眠れること
  • 話を聞いてくれる誰かがいること
  • 話たくなるあなたがいること
  • 日常の些細な幸せを感じられること
  • 笑えること泣けること怒れること

 

自分のことが「明らかに」なってきたお陰で

少し客観的に自分を見られるようになった。

上記の色々は当たり前なんかじゃない。

 

自分の事しか考えず、

私を中心にしか物事を捉えてなかった時代は

思いも寄らなかったけどそれらが成り立つのは

不完全な自分を許容したり支えたりしてくれた

人や環境があったからだ。

 

すみません星人の私一人では

これらをすんなり成り立たせるスペックは無い。

 

全部、全部、本当は「有り難い」事で

あらゆる要素が揃ったからこそ与えられていた。

「すみません」とかお前の気持ちを語って

自己防衛&自己弁護してる場合じゃないぞ。

 

わたしの日常は「有り難い」

あらゆる要素であふれている。

「有り難い」と書いて、ありがとう。

 

謝ってる暇があったら、

具体策を考えるか、感謝しろ!!!

そんな風に思えるようになった。少しだけ。

 

根っからのすみません星人は

なかなか一日二日では治らないけれど、

今まで頑張ってきたすみません星人も労いつつ

 

いつか「ありがとう星人」に

進化させてあげられたらいいね。

 

明日も「有り難い」日常を噛み締めながら、

いつかありがとうの達人になれる日を

夢見て生きていく👾

 

今日も変わらない日常に、ありがとう。


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カミングアウト失敗談【後日談3】

 

 


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さてさて、

ここまで彼へのカミングアウトについて

今までの経過やら後日談やらを書いてきたけど

いよいよ完結編です。

 

◆その後、3年経っての今について

◆カミングアウトのコツと本質について

を書いていく。

 

その後、3年経っての今

結局のところ彼からの理解は得られたのか?

結論から言うなれば「得られてない」。けど

 

私と彼との関係性はかなり変わったし、

障害に対する捉え方、私も彼もこの3年で

色々と変化したのは間違いない。

 

【とあるイベントでのエピソード】

先日、とある方からお話を頂いて、「ヒューマンライブラリー」というイベントで、発達障害の当事者としてお話させて頂くことになった。

珍しく彼が「みっちゃん話すなら俺も行こうかな」と言ってくれたので、いいよ~おいで~くらいの軽いノリで、彼も一参加者として来てくれる事に。

 

私は既に彼に障害云々を理解させる事については「手放す」と決めていたから、単なる自分の経験と楽しみとして、来てくれる方々に何か一つ伝わる話ができればそれで良いと思って構成を練った。(冒頭の写真はその時のやつ)

 

準備段階でポロッと私が「何話そうかな~」と呟いた際、彼から意外な意見がポロポロと出てきた。

 


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正直、驚いた。

 

彼は私の診断やら発達障害やらに微塵も興味が無いどころか、話題にすらしたくないもんだと勝手に思っていた

 

そうじゃなかった。彼は彼なりに色々と知っていたし、自分なりの考えを持っていた。

 

元々だったのか、この3年で変わったのかは分からない。けど少なくとも診断そのものを全否定されている訳じゃない、ようやくそう思えた。


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結局、イベントはあくまで「私 対 来てくれた人達」という構造を想定して、ありのままの思いや経験を伝えた。

 

「彼に分かって欲しい」という独りよがりな思いは横に置いて、ただまっさらに自分の今までと、今思うことを「一人の当事者であり、一人の社会人」としてありのままを話した。

 

そんなイベントだったのだけれど、意外と彼に響いたらしい。話の内容についてなのか、当日までの様子を見てなのか、弱味を見せられる姿勢についてなのかよく分からないけれど、

 

彼はその日の話を「良かった」と褒めてくれて、事あるごとに話題に挙げてくれる。(ご指摘もあったけどね。話しながら資料ベタベタ触りすぎ…とか)

 

彼と私の間にある唯一の溝だった

「診断」というカードがパタンと倒れて

まさかの繋ぎ役になってくれた。

 

カミングアウトについての持論

まあこう文章で書くと

「はいはいそうっすね良かったっすねー」

ぐらい平べったい話だけど、

現実的には3年もの月日が流れている。

 

何度も何度も、嫌になったり悲しくなったり

障害に理解あるパートナーがいる人達を

心底羨ましく思った。

何を言っても伝わらない相手と本当にこの先

やっていけるのかと何度も不安になった。

 

けど、

 

それでもって彼が全面的に変わった訳ではなく

結局のところ変わったのは【自分の認知】

じゃないかと思う。

 

カミングアウトの本質は

「自分の思い描く反応を相手に求める事」

なんかじゃない。

 

「私は私」という相手との境界線を引いた上で

自分自身を開示して、その後の反応や動き方は

目の前の相手に委ねること、任せること、

その上でやるべき事を地道に淡々と続けること。

 

そういう事なんじゃないかと。

そうあるべきだからそうなんじゃなくて、

そんなスタンスでいるのが一番 楽 だから。

 

それでも多少「分かって欲しい」と思うのが

人間であって、厄介な女心。そんな時は、

 

まず自分から歩み寄る

 

のが先であって、まず自分から

得体の知れない「定型発達」を

理解しようと努めてみる、

相手の期待や要求を受け入れてみる。

スタートラインに立てるのは その先 。


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今もなお、全てを互いに理解しきれている訳ではないけれど、そもそも他人に100%の理解を求めることがおかしい。人間だもの、他人だもの、

経験したことの無いものは分からないし、

理解もできない。

 

だからさ、理解し合えない前提で

ちゃんと言葉にしたり、共有したり、

そういった工夫を続けていく事が大事よね。

 

全てを分かってくれる王子様や理想郷!を

探さなくても、理解し合えない他人と折りあい付けてやっていく術は必ずある。し、

 

この世はパラドックスみたいなもんで

なんでかどうしてか

「手放した後でようやく手に入る」物事が本当に多い。北風と太陽、みたいなやつね。

 

理解しろ理解しろ理解しろって、それしか見えてないまま力んでいるうちは誰も寄ってこないけど、

 

色んな物を思いきってリリースして身軽になると、目を向けてくれる人達は実は必ず存在する。

 

相手の認知をねじ伏せる為のカミングアウトではなくて、ほんの少しの「がんばるけどお手柔らかにおねがいしますね~」表明を添えて【自分自身がよりまっさらに軽やかに生きていく】ためのカミングアウト。

 

周りが変わるや否やは、

おまけみたいなもん🍬

 

大失敗と挫折を経て、

今だからこそ私はそう思う。

 

皆様は、どう思いますか?