みっちゃん(ADHD)公開日記帳

ADHD社会人。日々悩んだり、迷ったり。紆余曲折しながら、発達障害と共に、仕事も私生活もより良く生きたい。

「駄菓子 大量買い失敗談」

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お正月も終わってしまうね。

明日からのお仕事が憂鬱すぎて

ひっくり返りそうだわ。カムバックお正月🎍

 

と、言うことで正月と言えば「お年玉」。

【お年玉にまつわる大失敗エピソード】と、

その振り返りから想う私なりの

「手に入れたい幸せ」について書いてみる。

 

<目次>

  1. 私にとっての「お年玉」
  2. お年玉はたいて駄菓子を爆買いした話
  3. 母から猛烈な叱責を受けた話
  4. 20年経った今想う「手にしたい幸せ」とは

 

 

私にとっての「お年玉」

わが家は元々、親戚付き合いが希薄だった。

お年玉をくれるのは、父と父方の祖父のみ。

もらえても数千円~一万未満程度ってところで

「何万円」単位でもらえている

同級生の話を話を聞いては羨ましく思っていた。

 

もらえる金額がその程度だった事もあり、

「母が代わりに受け取って謎の口座へ~」

みたいなしきたりはなく、全額現金で本人が受取り

その後の使い方も完全に本人に決定権があった。

 

全額貯金していつか好きなものを買うも良し、

一気に散財して後で悔やむも良し、

自分で判断して金の使い方を学びなさい、

ただしモラルの範囲内で。そういう方針だった。

 

同級生に比べ少ないとは言え、

当時の自分には千円単位のお金は高額だった。

しかも自分で使い方を選べるまとまったお金。

可愛いぽち袋に入ったお札は非日常感にあふれ

手に取るだけでとてもわくわくした。

 

 

 

私はと言うと、

コツコツ貯める or 派手に散財する

のどちらかで極端なタイプだった。

0か100かしか選べないのは相変わらず。

 

とは言え「自分で考えて学べ」方針だから

めったに親に口出しされる事はなかったのだけど

一度だけ、とんでもない使い方をして

母を激怒させたことがある。

 

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お年玉はたいて駄菓子を爆買いした話

まあ読んでの通りなんだけど。

昔から、やる時は振りきって徹底してやらかす。

何を思い立ったのか、お年玉数千円握りしめ

「買えるだけのお菓子を買ってみよう!!」と。

 

現実的かどうかはさておき、

この案、めちゃめちゃときめきません???w

 

当時、お小遣い数百円の身分な訳で。

駄菓子屋でも「優先順位を付けて買う品を選別」

しなきゃならん訳ですよ。

 

友達があれこれ買うのを横目に、

自分の手の中の100円玉やら何やらの合計と

欲しい物の合計金額を考え、

どれを買うならどれは我慢だ~

どちらを優先しようかな…的なアレ。

 

お年玉あれば、それやらなくて良いじゃん!

一度で良いからお菓子すきなだけ買ってみたい!

(本当に当時から、衝動性の固まりだった)

 

心踊った私は、同じようにお年玉所持した友達と

トコトコ後を付いてくる弟を引き連れて

近所の駄菓子屋二軒と、スーパーをはしごした。


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なんか気分がハイだったからか、

買ってる最中の情景はあまり覚えていないんだけど

 

最後に行ったスーパーのレジで

「あらあらそんなにお菓子買って~wwww」

とレジのおばちゃんに爆笑され、

 

レジ横で袋詰めしてたら、

見知らぬおばあちゃんから「沢山買ったのね~」

って声をかけられて「うん!」って

誇らしげに答えた記憶だけは鮮明にある。

(今思えば、褒められてないわ。心配されてた)

 

とてもとても、満たされた気持ちで家へと歩いた。

その両手には溢れんばかりの高揚感と、

ビニール袋二つ分 一杯の駄菓子が詰まっていた。


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(※画像は、当時好きだった駄菓子達)

 

 

母から猛烈な叱責を受けた話

当時から、衝動性に突き動かされ行動していた私は

母がどう反応するかなど微塵も思案しておらず。

 

母は、その両手一杯のお菓子袋を見るなり、

色々と私に質問を投げかけた。

「そのお菓子はどうするの?」

「いつ食べるの?」

「一人で食べるの?」

「そんな量食べたらご飯食べられると思う?」

「ご飯食べずお菓子だけ食べたらどうなる?」

「それはちゃんと考えてお金を使ったの?」

「お金はどこから来たものか分かる?」

「そのお金の使い方は正しい?」

 

あ、やっちゃいけないやつだったわw

ここでようやく我に返る。

当時、もう年長か、小学生低学年くらい。

これらの問いの答えは少し考えれば分かるし、

それなりに物事の分別は付いている年齢だった。

(ただ、いつも考える前に行動していたけどw)

 

まあ基本使い方は自分に委ねられていた訳だし、

母も「お菓子を沢山買ったこと」そのものではなく

考えれば当時の私に判断できる分別の枠を越えて

ただ衝動のまま大金をはたいてしまったこと

怒っていたんだと今なら分かる。

 

そりゃあね、今でこそ一週間(二人)分の

食材の買い出しで3000円くらいなのに、

それ全部お手頃価格お菓子ってすごい量だわw

 

こうして、両手一杯のお菓子二袋は

帰宅後15分ままならぬうちに母に没収され、

階段下の物置きの棚上行きとなった。

母管理の元、家族で分けて少しずつ消化したw

 

 

私が「手にしたかった幸せ」とは

その後、20年以上の月日が経過した今

当時の経験を糧に立派な倹約家へと成長した!

ならばただのありきたりな話なんだけど、

残念ながらそうじゃない。

 

今もなお、おんなじような事を繰り返している。

 

100均に行けば好きな物を好きなだけ買ってみたり

サイゼで一人食べ放題して数千円溶かしたり

 

昨年夏の誕生日には、プレゼントの代わりに

世界一UFOキャッチャーのある店に行って

飽きるまで遊びまくる!という遊びを

繰り広げたりした。(一万位使ったと思われる)

 

今だからその正体が分かったのだけど、たぶん

普段買いたいけれど買えない、とか

こっちが良いけど安い方にしよう、とか

 

一番の欲求を横に置いて、

現実的な二番目、三番目の妥協案で

折り合いを付ける、という場面が

日常生活の中では本当に多い。

 

特に、私達 発達障害者は社会の中で

何かと自分の特性を抑えたり手懐けたりして

どうにかこうにか生きているから尚のこと

 

その息苦しさから開放されて、

本来の欲求を通したいという反動が

人一倍強いんじゃないかと思う。

(普段から0か100かなのも、これが理由?)

 

とどのつまり、

私は駄菓子が欲しかった訳でも

サイゼのミラノ風ドリアが果てしなく好きな訳でも

アミューズメント専用景品が欲しい訳でもない。

 

「日頃の抑圧感から開放されてまっさらに

    楽しんだり意思決定したり、

    その嬉しみや高揚感に浸ることが出来る」

これが私の手にしたかった幸せなんだと思う。

 

すご~い高級な物とか、高額なお金とか

そんなものではなくて。

日々生活の中で少し我慢したりセーブしたり

慎ましい調節やら何やらをしているからこそ

たまに手にする「ちょっとした幸せ」に

意味や彩りが生まれる。

 

それらはほんの数十円の駄菓子でも、

心許した人と食べるチェーン店料理でも、

ほんの数千円で捕ったぬいぐるみでも良い。

 

「今日は『外食したつもり』で好きなだけ

    お惣菜買おう!」そんな【特別な日常】が、

私は何よりも大好きで、尊いと思っている。

 


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最も、この幸せのポイントは

「普段は節度を持って自分の衝動を

    コントロール出来ている」ことで。

 

もしも際限なく欲しい物を買い与えられていたら

何でも願えば手に入ると疑わないワガママ女か、

衝動故に一線を越えてしまった

万引き常習犯になっていたかもしれない。

だから母は、私を叱ったんだと今は思う。

 

誰しも、開放したい心に秘めた欲求や

現実的に叶わない願いを抱えている。

多かれ少なかれ、特性の有無に関わらず。

 

大事なのは、自らの特性や現状に応じて

それらを自覚し、日頃はコントロールした上で

生活に支障のない範囲で発散させてあげること。

それでこそ「幸せ」の延長として成立し得る。

そうでなければ行き着く先は、

ただのワガママ物か犯罪者になってしまう。

 

 

 

発達障害児にはとことん好きな事をさせろ」

「世の中のルールを押し付けるべきではない」

 

世の中には色々な声がある。

自分も実際、世の「一般的」レールに馴染まずして

沢山沢山こじれたり失敗したりしてきたから

一概にこれらが間違いだと言う気はないけれど

 

私は「いけない事はいけない」と

社会のルールやしきたりを厳しく教えてくれた母に

今となっては(今となってはね)感謝している。

 

何事も、土台がなければ応用は出来ない。

発達があるからと言って社会のルールを

無視して良い免罪符を得られる訳ではないのだから

 

「基本のベースは身に付けた上で」自立後に

本人が生き方を選んで行ける環境が理想かなあと。

 

難しいのは、その「基本を教えるプロセス」が

定型発達の子のそれとは少し違った工夫やら

何やらが必要なところだと思うけどね。

 

 

何はともあれ、私が今それらを幸せと感じられて

且つ生活の中での取り入れられる環境にあるのは

「みっちゃんは変わっているよね~」と笑いながら

懲りずに付き合ってくれる人達がいるからだ。

 

 

そんなことに感謝しながら、明日からもまた

色々な特性を手懐けたりコントロールしながら

社会で奮闘する生活に舞い戻る。

 


辛くなった時は、ぱ~っと開放しながら

ぼちぼちやれる範囲でやっていきましょう🍬

 



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