みっちゃん(ADHD)公開日記帳

ADHD社会人。日々悩んだり、迷ったり。紆余曲折しながら、発達障害と共に、仕事も私生活もより良く生きたい。

「平凡な大人」になりたい

 

「平凡な大人」になんてなりたくない

 

誰しも一度はそんな思いを抱いたことがあるのではなかろうか。恥ずかしながら、実は自分もその一人だ。

 

“将来の夢”に「コンビニの店長」と書いた男子を、面白おかしくいじったりした遠い記憶。

 

そんな私が、今となっては誰よりも「平凡な大人」に憧れている。何なら「将来の夢」と言っても過言ではないかもしれない。

 

20数年の時を経て、ひっくり返った価値観の根底には、一体何があるのだろう。

 


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誰よりも「秀でていたかった」幼少期

説明しよう。何を隠そう、私は誰よりも「秀でていたい子」だった。(可愛くないね)

 

音楽の授業のリコーダーも、冬の体育の縄跳びも、図工で製作する絵画も、成績も、

 

周りよりも頭一つ抜きん出ていたい。

認められたい。称賛されたい。

 

何故か。人気者になりたかった訳でも、目標があった訳でもない。答えは明確。親に認められたかったから。これに尽きる。

 

私にとって、全ての評価軸の中心は「親」だった。言うなれば「お母さん」だ。ちょいと家庭環境が難ありだったり、宗教が絡んでいたり、詳細は割愛するけど、親からの評価を得るのにはそれなりにコツがいる環境だった。

 

よくテストの点を「悪い順」に並べて、最後に最高得点の教科を御披露目できるように、親への伝え方を模索したりしていた。

 

親から認められたい、褒められたい。そんな欲求を満たすのに「学力」や「順位」は分かりやすくて明確で、私にとって好都合な指標だった。

 

なぜそこまで親に認められたかったのかと言えば、きっと「見放される」事に異常な怖さを感じていたからだと思う。

 

幼少期、親がいなくなる夢を見て泣く事がよくあったし、親からの「前はそんなんじゃなかったのに」「見損なった」というような言葉には強い拒否と嫌悪感があった。

 

なぜそうなったかはさておき、私にとって親からの愛や承認は「無償の永久的なもの」ではなく「有償の半永久的なもの」という感覚だった。

 

親の一番に私はいない。けれど、少しでも上位に食い込むためにはステータスが必要だ。親が望む答えを、結果を、立ち振舞いを。頭一つ秀でる事が手っ取り早いその獲得に繋がる。

 

それを止めたら、私は一人になってしまう。私は、秀でていなくちゃいけない、秀でていたい。

 

そんな認知の元相対評価ベースの頑張り合戦」が始まった。

 


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突き放したい、けど執着したい

 

そんなこんなで頑張り合戦をベースに、そりゃあまあプライド高子ちゃんとして育つ訳だけれども、常にその根っこにあるのは「さみしさ」であって。

 

何かをしないと得られない愛情しか知らぬもんだから、根本的な自分自身の存在やら価値やらには微塵も自信がないわけ。(いわゆるプライドが高いけど自信は無い、って一番ややこしいタイプね)

 

そうなるとアイデンティティーの確率期(要は思春期)に揺らぐのは、ごくありがちな傾向で。

 

私の場合、中学高校とか外の世界と密に(?)関わり始めてから、自分の家庭の異質性に気付き始めた。宗教云々のこととか。

 

 

世の中の基準がコレで、わが家の基準はコレ。これだけ解離している基準を満たすために、私は頑張り合戦を続ける必要ある??そもそも親に好かれる必要ある??

 

今まで疑うことも知らなかった一つ一つに懸念が生じて、二の足を踏み始める。けれども「じゃあこうしよう」という断固たる決断が出来る程のベースも自信も無いから、中々完全に親と自らとを切り離して自己決定することも出来ず。

 

結果、表面上の褒められたい欲は消失(むしろ親を険悪したり拒絶したりしがち)するも、何だかんだ親と離れられない【共依存】的な距離感をとりがちになって。

 

「親なんかいらない」

見せかけの自立の根底には、いつだって

さみしさ由来の依存心・執着心があった。

 

 


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一人立ちして思い知った自らの無力さ

 

さあそれはそれは盛大なプライドを担いで家を出たものの、待ち受けていたのは「挫折」だった。

 

あんな訳アリ家族いらない、私は一人で生きていける、いつだって努力で道を切り開いて結果を残してきたじゃないか…!等と。(遅咲きの中二病かな)

 

細かい諸々は割愛するけど、義務教育が終わり、生活全般と学び云々の両立が求められるステージ、または社会人として生きる上では、中々今まで通り「秀で続ける」ことは出来なかったんだよねえ。(まあ発達障害ですから)

 

格好悪いよねえ~意気揚々と家を出たのに。ちなみに、そんな無念さ相まってだったのか何なのか、そんなステージに及んでもなお家庭のいざこざには足を突っ込み続けた。これぞ、ザ・共依存って感じね。

 

まあ両親が色々と訳アリだったのもあって「私が家族を支えている」みたいな何かが欲しかったのかもね。やっぱり何かしら秀でていたいから。そんなヒマあったら自分の課題と向き合いなされってね(BY10年後のわたし)。

 

余談はさておき、結局のところ、少しばかり広い世界に出てみたら「私は何一つとして秀でていない」という事実に気が付いてしまった。

 

それどころか、世の中の平均にすら届かないことが沢山あって、何なら「凡人」すらハードルが高いであろう現実と直面した。(そのきっかけの1つが、発達障害の診断だったりする)

 

私は「普通」ですらない、

どうしたら「普通」になれるのか

 

 

親と子、という上下の関係とはまた別に「私」としての生き方・あり方についての模索が始まった。

 


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秀でていなくたって認めてもらえる場所がちゃんとある

 

そんな挫折から始まった色々だけれでも、結論から言うなれば「別に秀でていなくても、自分を認めてくれる場所や人は確かに存在する」という事を私自身が気付き、

 

それに付随して今まで頑なに譲ることの出来なかった「秀でていることで愛されたい」という相対評価ベースの他者承認を必要としなくなったことが、価値観の転換に大きく関わっていると思う。

 

むしろ、自分の弱さ脆さをありのまま認めて人と関われるようになってからの方が、他者との人間関係は格段にスムーズになった。(それまで20年間の苦労は一体…orz)

 

そりゃあそうだよね。別に「秀でている人が愛される」なんて法則、ないもん!!

 

たまたまそれがうちの親にヒットしがちだっただけであって(この辺は、私の課題半分・親の課題半分的なところがある気はするけれど)、それが全人類のアンサーなんかじゃない。

 

 

 

平凡でも、ありきたりでも、むしろ平均以下だろうが何だろうが「人対人」の中核にある大事なところさえベースにあれば、社会の中で人は居場所を見つけられるし、ちゃんと幸せを感じられるんだよねえ。

 

この核の部分ってのが、若き時代の私に足りなかったもので、書くほどでもない気がするけど

  • 自他との境界線をしっかり引くこと
  • 感謝、謝罪、気遣いをちゃんとできること

 

とかその辺りだったんだろうなと。「愛されたい」が先行するあまり、なーんにも見えてなかった私な訳だけれど

 

自分の無力さと向き合ってそれを認めた上で、他者への評価もガラっと変わった。勿論、親に対する見方接し方も根本から変わった。

 

世の中は、思っているほど自分に完璧を求めていないし、完璧にはなれないし、どうあがこうがもがこうが自分は自分でしかいられないし、それ以上にも以下にもなれない。

 

けど、多分それで良い。

 

そこを認めて、ありのままの自分を認めて、他者との関わりを考え直すことがスタートだった。

 

思っていたより世の中は寛容で、別に高得点を叩き出し続けなくたって、OKとしてくれる環境が実はあちらこちらにあった

 

私は私、あなたはあなた、

それはそれで良いねという見方が身に付いて、私は格段に生きやすくなった。

 

自分は自分のままでも良くて、私も、親も、あなたも完璧じゃなくて良い。平凡だって、それ以下だって良い。

 

相対評価ベースの頑張り合戦が幕を閉じ

絶対評価ベースで自分と人と向き合える

 

 

なんて「楽」なんだろう。

 

 

そんな無理してまで親に愛される必要もなければ、もうそこに執着する必要もない。むしろ、親も親なりに色々な葛藤があってそうなっていたんだろうと労いの気持ちさえ持つようになった始末(ちょいとおこがましい)。

 

 

何だかんだ「平凡な大人」って尊くて素晴らしい、そんな事実に気が付いてしまった。もう背伸びし続けなくても、私は私のままココにいて良かったのね、と。

 

 


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「平凡な大人になりたい」

そんなこんなで、ここ10年間色々あって、わたくしは「平凡な大人」として生きていく事が将来の夢でありビジョンであります。

 

普通に学校を出て、

就職して働いて、

恋愛して結婚して、

出産して(←無事できますように)、

 

どこにでもいるかのような一庶民として子育てをして、趣味を満喫して、時には愚痴を言ったりして、たまに家族と旅行にでも行って、夫と末長く連れ添って

 

 

目立たずとも、平凡でも、ありきたりでも

そんな自分を「良し」とする居場所があって

私は私のまま生きていけるって、最高すぎる

 

 

その「普通」に中々届かない、不器用で、ちょっとズレた自分だからこそそれがいかに当たり前なんかじゃなくて尊い幸せか、今ならよく分かる。

 

むしろそれらの「当たり前」が喉から手が出るほど欲しいから、私は命懸けで「平凡な大人」を目指している。

 

幼少期、一番なりたくなかったソレが、今の私の将来の夢であり且つ生きる目標だったり。人生分からんね。


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先日、ネットニュースで見かけたEXITの兼近さんの言葉が妙にしっくり来ているのだけど

「長いものに巻かれて光れ」

ってやつね。何かと言えば、そもそも学校行かない系youtuber(?)君の是非みたいな話題の中で

 

「大衆から秀でて(はみ出て)突出する事その物は悪ではないけど、その背景には必ず『大衆の一人』が積み上げてきた社会がある。」

「突出するにしても、まず『当たり前・平凡』な感覚を持つ人達の見方を理解する必要があって、その上で突出しなければ意味がない」

「『長いものに巻かれた上で、光る』って大事なのではないか」

 

的な事を述べていて(ざっくり記憶なので違ったらごめん)、それなoffそれな!!!と感銘を受けた。

 

長い物に巻かれる=平凡とされる枠に収まりつつ

光る=その上で信念や軸を持って輝け

 

って価値観、良いよなあ…と、その言葉をじわじわ反芻している。インフルエンサーとか、スーパー企業家とか超エリートとかキラキラ主婦とか、そんなのになれなくったって全然良い。

 

日本のどこにでもいる、ありがちな平凡な社会人であり妻であり母であり一庶民。だけど、その「普通の生活」を大事にしつつ、

 

自分の考えや価値観、楽しみや幸せな瞬間一つ一つを大切に磨いて沢山ポケットに入れて長いものに巻かれつつ、キラっと光る自分であり続けたいなって思う今日この頃。

 

 

以上、

「平凡な大人になりたい」心情レポートでした!

 

 


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