「自分なんか辞めてしまいたい」日のひとりごと
弱音の詰め合わせみたいな記事。元気のない人は、まわれ右!
さてさて、あなたは自分を辞めたくなる日がありますか?わたしは、まあそれはそれは定期的に訪れる。なんだかよく分からない気分的な周期の底だったり、ミスをしたり、やらかしたり、自分では一番触れられたくない痛い部分を人から指摘された時が多い気がする。
私は「みんなが当たり前にできる」ことができない。
みんなが極々当たり前に日々こなしている、朝すっきり起きること、時間を守って準備すること、忘れ物をしないこと、自然に挨拶をすること。
人に相談すること見通しを立てて優先順位をつけること、マルチタスクをこなすこと、忘れないこと、メモをとること、楽しく誰かと雑談をすること、気遣うこと、正確に作業すること、空気を読むこと、間合いよく振る舞うこと。
「当事者の人達でさえ出来ている」けれど、私には出来ないことが沢山ある。
受診を継続すること、薬を飲み続けること、医者に頼ったり相談すること、自分と向き合うこと、辞める勇気をもつこと、決断すること、適切に休むこと、周りにSOSを出すこと。
周りはきっと言う。
「考えすぎ」
「そんなことない」
「あなたは出来てるよ」
「他にも出来ること沢山あるよ」
「できなくても良いんだよ」
「そのままで良いんだよ」
「じゃあ努力すれば良いだけ」
「みんなも頑張っている」
「周りだって出来ていないよ」
自分も、逆の立場なら同じように言うだろうし、同じように思うし、何なら他者に対して全て「出来る=良いこと」だなんて微塵も思わない。
なのに、なぜ自分だけを良しとできないのか。
褒められたいのか、認められたいのか、擬態したくないのか、ありのままで受入れられたいのか、つかれているだけなのか、何なのか。
別に、全てを器用にこなしたい訳じゃないし、これらが全て改善されてもきっと私は、何ら理由をつけてウダウダと口に出さない悩みを巡らせ続ける。
特性だとか、苦手だとかか根本的な問題でなくて、もっとそもそものところにある、認知面の問題だ。
私じゃなくて、私があの人だったらなあと。
無いものねだりなのは分かってる。きっと、周りに言われる「あなたはできる」と私が思う「私はできない」に差異があるのと同じように、素敵に見えるあの人にもこの人にも、余裕に見えるあの人にもこの人にも、きっと見えない「出来ない」があって、孤独がある。そして私も、誰かにとっての「あの人」だ。それはまちがいない。
今のままでも、できなくても、そのままでもそれで良いし、やれることスモールステップでやるしかないのは何千回と頭で承知したのでよく分かるしそう思う。
けど、心が「私を辞めたいなあ~」って言うんだよね、たまに。
そんな「私を辞めたい」な気持ちを、そのまま横から眺めて「そうか~」って言ってあげるために、この記事を書いた。
誰に何と言われようが、私はずっと私を辞めたい。いつだってドロップアウトしたいと切に願い続ける。けど、そんな辞めたがり人間も丸ごと認めてあげられる私でありたい。
ん~何のこっちゃってね。文章のゲシュタルト崩壊。伝わる人にだけ伝われば良いし、世界中の誰にも伝わらなくても「辞めたがりなわたし」だけは知っている。あしたも、「私」と手を繋いで生きよう。